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その3 懐かしいぬくもり
ジェイに急かされるまま、美紅はほとんど自分の意志なく彼の車に乗り込んでいた。
気が急いているらしいジェイは、何も言わずにエンジンをかけて走り出そうとする。
美紅は、慌ててジェイの腕を掴んだ。
「ち、ちょっと待ってジェイ」
「なんだい? あっ、そうだ。ホテルのディナーはどうするかな?」
「ね、ねぇ、亜衣莉だけど、置いてきちゃって…なんか心配なんだけど?」
亜衣莉は、ひどく心細そうだった。
妹の不安そうな瞳がいまさら頭に浮かんで、美紅は唇を突き出した。
やっぱり戻ってあげなきゃ…
「彼女は大丈夫だよ。ゆり子さんに頼めたし、今頃はもう、聡と顔を合わせてるさ」
そうなのだろうか?
「室長、亜衣莉のこと歓迎してくれると思う?」
不安から口にした美紅に対して、ジェイは大きな笑みを浮かべた。
「そりゃあ、誰よりも大歓迎してくれるさ」
そう語るジェイの笑みには一点の曇りもなく、美紅を意味もなくほっとさせてくれた。
「美紅、心配など不要だよ。あのクリスマスプレゼントの量を見れば、聡の気持ちはあからさまだろ?」
たしかに、かなりのものだった。
「あんなにいっぱいプレゼントくれるだなんて…」
室長の家はずいぶんお金持ちみたいだ。
きっと室長自身もお金持ちということなのだろう。
だから室長は、金銭感覚が一般の人とは激しくズレているのに違いない。
亜衣莉に服を買うことになったときも、自分のカードでさっさと払ってしまった。
彼女の妹の服だし、美紅も半分払うと言ったのだが、室長は今度請求するよと言い、そのことはそのままになってしまっている。
美紅は、眉をしかめた。
もしや、今度の給料でごっそり引かれてたり?
ど、どうしよう…
いただいているお給料はとても多いのだが、あれだけの服の代金だと、たとえ半分でも相当の金額かもしれない…
自分の服代でお給料の支払いが劇的に少なくなったと知ったら…あの妹のことだ、いっぱい気に病むだろう。
困ったかも…
そうだ。今度室長に、二十回くらいの分割払いでお願いしますと頼んでおこう。
一応悩みが解消し、美紅は晴れ晴れとして、携帯を耳に当てて話をしているジェイに顔を向けた。
美紅が考え込んでいる間に、ジェイはホテルに連絡を入れたようだった。
ジェイが話を終えるのを待って、美紅は彼に話しかけた。
「ねぇ、ジェイ。本当に伊坂室長は二十五才なの?」
どう考えても、そうは思えない。
二十五才といったら、美紅とそんなにも違わないことになってしまう。
あの貫禄、あの落ち着き払った態度…ふてぶてしい…
いさめるように睨んでいる室長の顔がポンと浮かび、美紅は頭の中の言葉を慌ててかき消した。
だが、二十五才というのは、どうしても信じられない。
「ジェイってば、わたしのことからかってるんでしょう?」
「美紅、真実、聡は二十五才だ。それより、ディナーだけど、一応待ってもらうことにしといたよ。ともかく怜治の家に行って母と会うとしよう」
ジェイは話しながら、車を発進させた。
「怜冶さんって、お母様のお友達なの?」
「ああ。友達というより、すでに夫婦のようなものさ。結婚はまだしてないけどね」
「そうなの」
「怜冶の生活の拠点は日本なんだ。怜冶としては、結婚してセリアに日本に永住して欲しいのさ。けど、セリアは向こうが気に入っていて、ずっと渋ってる」
「それじゃ、もしかしてこれからは日本で暮らすかも知れないの?」
「まだわからないな。イギリスはというか、いま住んでいるところは、母にとって大切な故郷だからね。でも、イギリスに帰れなくなるってわけじゃないんだから…。永住しないにしても、これまでよりは日本に来る回数は確実に増えると思うよ」
考え考え話すジェイの横顔を見つめていた美紅は、ジェイがこれまでに口にした言葉を思い返し、彼の本心に気づけた気がした。
ジェイが日本で暮らすことにしたのって、きっと怜冶さんのためなのだ。
ひとり息子が日本に行き、イギリスには二度と戻らないと言えば、母としては息子に会いに日本に来るしかなくなる。そして、さらに美紅との結婚の報告。
「ジェイは、怜冶さんがとっても好きなのね?」
進行方向に視線を向けていたジェイは、パッと美紅に向き、すぐに顔を戻した。
「彼は、僕にとって、父以上の存在だからね」
美紅は、もう自分に顔を向けていないジェイを見つめ、にっこり微笑んだ。
ジェイに、そんな特別な存在がいるということが、ただただ嬉しく思えた。
「あとどのくらいで着くの?」
美紅がそう尋ねた時、ジェイが左手を伸ばしてきて、彼女の右手をぎゅっと掴んだ。
「そんなに遠くないよ。二十分ってとこかな」
彼の手のひらのぬくもりにしあわせを感じながら、美紅はこくんと頷いた。
ジェイの母はどんなひとなのだろう?
まだ会った事のないジェイの母セリアを、美紅は想像してみた。
天使にみえるジェイの母親なのだ。
スタイルもよくて、ジェイと同じ金髪で、青い瞳。
想像もできないほどの美女に違いない。
まさに女神様と呼ぶに相応しいような…
自分勝手に思い描いたセリアの姿に、美紅は顔を曇らせた。
わたし…歓迎されるだろうか?
ちょっぴりどころではない不安が、胸に押し寄せてきた。
わたしは、てんで駄目なやつだ。
お料理は出来ないし、お掃除もうまいとはいいがたい、金銭感覚についても亜衣莉に叱られてばかりだ。
そして極めつけ、自分でも情けないほどドジを踏む。
こ、こりゃあ、歓迎を期待するなどおこがましいというか、どっちかっていうと、大ピンチなんじゃないだろうか?
青くなった美紅は、まだ自分の手を掴んでくれているジェイの手を、左手で縋るように握り締めた。
「美紅?」
「な、なんかね。その、なんかね、その…」
「どうしたんだい?」
「ジェイ」
「うん?」
「一粒飲んだら、ドジじゃなくなる薬とか、どこかにないかしら?」
美紅は真剣に問いかけた。
一瞬表情を固めたジェイは、次の瞬間「ぶはっ!」と吹き出した。
ジェイはブレーキを踏み、車を停めて美紅に咎めるような目を向けてきた。
「美紅…頼むから、走っている最中に、吹き出すようなこと言わないでくれ…」
ジェイから叱られた美紅は、小さくなった。
別に吹き出させたくて言ったわけじゃないのに…
美紅は、割に合わない気分で、「ごめんなさい」と謝った。
ジェイとやってきたのは、美紅のイメージとして、邸宅と呼びたくなるような家だった。
先ほど後にしてきた伊坂室長の家は、馬鹿みたいにでかかったが、あれほどじゃないにしても、そこそこ大きな家だ。
車を駐車場に停めていると、玄関のドアが開いて、女の人が飛び出てきた。
ジェイの母に違いない。
その人に向けて手を上げたジェイは、「セリア」と呼びかけ、すぐに車から下りた。
駆け寄ってきたセリアは、ジェイに勢いよく抱きついた。
セリアの後ろから、男の人がやってきていた。彼が怜冶という人に違いない。
「いらっしゃい」
怜冶に声を掛けられ、美紅はどぎまぎしながら「こんばんは」とお辞儀した。
セリアは思った以上に若い感じだったが、美紅の想像とは大きく食い違っていた。
美紅の頭の中で予想したセリアは、ジェイをそのまま女性にして年齢をプラスした姿だったのに、本物のセリアは栗色の髪、それに少し大柄というか、ぽっちゃりした体型だった。
とはいえ、ジェイに比べればかなり背が低い。
「セリア、紹介するよ」
母親の背を軽く叩いて身を離したジェイは、にこやかな笑顔で美紅に振り返ってきた。
セリアと目を合わせた美紅は、これまでにない緊張を感じた。
こいつは、職場で伊坂室長にじっと見つられたと同じくらいの緊張度。
「あ、あの…み、美紅です。はじめまして」
「ふ〜ん」
美紅を見つめてそんな声を洩らし、ジェイの母はゆっくり近づいてくる。
息子の嫁になる女を、検分しているかのような眼差しだ。
検分しなくたって、彼女は嫁としては最低の部類なわけで…
嫌われることを覚悟した美紅の目に、みるみる涙が湧き上がった。
そんな美紅を見て、ジェイの母は首を傾げた。
涙のせいで、セリアの顔はぼやけてしまっている。
「み、美紅、どうしたんだ?」
驚きを含んだジェイの声に、美紅は慌てて涙を拭った。
「き、嫌われちゃったらどうしようって、おっ、お、思って…。わ、わたし、亜衣莉と違って、い、いいところとか全然なくて…」
「美紅」
「ヤーネー、アッタでの、カンドしたかと思たラ…」
「へっ?」
セリアの口にした言葉の意味がまったく分からず、美紅は目を瞬いた。
「会えて感動して泣いているのかと思ったと、セリアは言いたいんですよ。美紅さん」
くすくす笑いながら、怜冶が言った。
セリアは、怜冶に不服そうな視線を向けた。
「レイジ、ツジてる。……チャンとぉ、セリア言ったワネ。ワカルネ? ミク」
どうやら、ちゃんと通じたでしょうと、美紅はセリアから問いかけられているらしい。
「あ…、ま、まあ半分くらい」
美紅はずいぶん割り増しして答えた。
「ハブン? マア」
どうやら、半分ってのはお気に召さなかったらしい。
むっとして美紅を見つめ、セリアはぐいと一歩踏み出してきた。
身の危険を感じるセリアの眼差しに、ぎょっとして身を引こうとした美紅は、次の瞬間、セリアに抱き締められていた。
『正直な子ね。それに彼女はジェイの言っていたとおりね、マシュマロみたいじゃない』
カタコトの日本語を捨て、セリアはペラペラと英語でまくし立てた。
もちろん、英語が苦手科目のひとつだった美紅には、ジェイという単語以外は、意味として聞き取れなかった。
何を言っているのかなんてさっぱりわからなかったが、セリアのやわらかな身体と体温は、無条件に美紅にやすらぎをくれた。
そして、鼻をくすぐるやさしい香り…
ジェイの母親。
お母さん……なんだ。
姿はまったく似ていないのに、セリアは天国に逝ってしまった美紅と亜衣莉の母の、懐かしいぬくもりを強く感じさせた。
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