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12 見透かされてる裏返し
「この時期の温泉ってのも、最高ね」
露天風呂に浸かり、芙美子が幸せそうに言う。
「うん」
母に返事をした沙帆子は、手のひらを肩から腕へと滑らせた。
このぬめり感、まさに温泉って感じ。
温泉特有の匂いも、いい気分にさせてくれる。
少し涼しい風が吹いているから、火照った頬に気持ちがいいし……
先生も、もう温泉は入ったかな?
どの温泉にどんな順番で入るか四人で話し合って決め、まず啓史と幸弘が部屋に設置してある露天風呂に入ることになった。
パパと先生が露天風呂で裸のお付き合いとか……なんか笑える。
喧嘩とかしてないといいけど……
沙帆子と芙美子は、大浴場の方にやってきている。いくつもお風呂があるし、大きな露天風呂もあって最高だ。
露天風呂のすぐそばに川が流れている。
なので川のせせらぎを耳にしつつお風呂に浸かれるのだ。
緑もいっぱい。
可憐な花や大きな木にも花がいっぱいついてる。
あっちのあの白い花は、コブシだよね。
で、こっちの小さな花が鈴なりについてるのは……なんだっけ?
「ねぇ、ママ。あの花は、なんていう花だった?」
「うん? ……ああ、馬酔木ね」
「アセビか」
そう言えば、そういう名前だった気がする。と思いつつ、沙帆子は黄色の花を指し、母に向けて「あれはカトレアだよね」と自信たっぷりに言った。
「カトレア?」
「うん、ほら、あの黄色いの」
「沙帆子、あれはカタクリの花よ」
「へっ? かたくり? かたくりって、あの片栗粉?」
「そう。まあ、いま出回ってる片栗粉はじゃがいもから作ってるようだけど」
「へ、へーっ」
驚いた。カトレアっぽいのに……
「でも、黄色より紫がメジャーよ。ただ紫のは三月の末に咲くようだから、この時期はもう咲いてないだろうけど」
「へーっ、ママよく知ってるね」
「実家の近くに自生してるところがあるのよ」
「そうなの? なら、わたしも行ってみたいな」
「来年、啓史君と行くといいわ。まあ、デートコースと言うよりは、ハイキングコースだけど」
先生とハイキングかぁ。いいかも。
「さあ、そろそろ上がりましょう。それにしても、誰も来なかったわね」
芙美子は残念そうに言う。
「ママ、こういうところで出会った人とおしゃべりするの好きだもんね」
芙美子が上がり沙帆子もついていく。
沙帆子としては、誰も来なくて大きなお風呂を独占できて、ラッキー♪ という気持ちなのだが。
「知らない人と会話するのは楽しいもの。ちょっとしたおしゃべりが、案外深い話になったりするのよね」
露天風呂から室内の大浴場の方に戻ったら、そこには少し人がいた。
裸なのがやっぱり照れ臭く、タオルで隠しつつ急いで脱衣所に戻った。
それにしても、いたれりつくせりの温泉宿だ。タオルもバスタオルもいっぱいストックされてて、いくらでも使っていいらしい。
ふわふわのバスタオルを使わせてもらい、ぜいたく気分を味わってしまう。
宿の浴衣を羽織り、可愛く見えるようにとがんばるが、なかなかきまらない。
「沙帆子、まだなの?」
帯を何度も結び直していたら、母に呼びかけられた。振り返ると、すでに出口の前だ。
「あ、うん。あの、ママ、おかしくない?」
浴衣の袖を握り、両側に広げて尋ねる。
「ああ……はいはい。そういうことね」
納得したように言い、芙美子は笑いながら沙帆子の方へやってくる。
そして浴衣の合わせを直してくれ、帯もきちんと結び直してくれた。
「さあ、いいわよ」
「ありがとう」
お礼を言い、出口に向かう母に小走りでついて行く。
だが、ちょっと動きにくい。
きちっと着せてもらったから、裾の方が閉まって、大きな歩幅で歩けないのだ。
そこで、ふと思いつく。
そう言えば、先生も浴衣なんだ。
うわーっ、佐原先生の浴衣姿は、始めてだ!
旅館の浴衣というのが、ちょっと惜しい感じだけど……
うーん、でも、それはそれでレアかな?
「あら、ちょっと見て。沙帆子」
なにやら興奮した母の声に、啓史のレアな旅館の浴衣姿を想像しようとしていた沙帆子は、母に向いた。
「どうしたの?」
「この窓。覗いて見なさいな」
「窓?」
通路の壁にある小窓だ。
よく見ると、通路にはいくつも同じような小窓がついている。だが、なぜかそれぞれ大きさが違っている。
なんで同じ大きさじゃないんだろう?
不思議に思いつつ、芙美子が覗いてみろと言った窓から外を覗いてみたらば……
「わっ!」
「ねぇ、ちょっと驚くでしょう?」
「う、うん。なんか写真みたい」
窓からは旅館の中庭が見えるのだが、その中庭が自然の森そのものなのだ。
「うわーっ、こんな構造になってるなんて思わなかったから、びっくりしちゃった」
「ここの建物、かなり入り組んでるみたいよ。後で幸弘さんとこなきゃ」
「パパと?」
「一緒に観て楽しむの。あんたもそうなさいな」
提案されて胸が弾む。
いいかも。
「そうする」
ふたりはもう窓には目を向けず、部屋を目指した。
部屋に戻ったら、啓史も幸弘も風呂から上がっていて、もちろん、啓史は浴衣姿だった。
「ああ、戻ったか?」
「ただいま」
「思ったより早かったな」
父と母の会話を余所に、沙帆子は自分に歩み寄って来る啓史に目を奪われる。
とんでもなく似合っておいでだ。ちょっと着崩した感じがなんとも……
胸のあたりの肌が、いい感じに見えたりして……
さらに、風呂上がりだからか、頬がほんのり上気なさっていて……男の色気がにじみ出ている。
直視できないが、直視したい‼
目のやり場に困り、目を泳がせていたら……
「いいな」
「えっ、なんですか?」
いま先生、いいなって言った?
「浴衣似合うぞ」
「あ、ありがとうございます。けど、先生の方が似合ってます」
啓史は、いぶかしそうに「俺?」と言う。
「は、はい」
パパとママがいなければ、思い切り、ぎゅっと抱き着きたいところだ。
すると、啓史は後ろに首を回し、幸弘と芙美子の様子を見る。
つられて沙帆子も視線を向けたら、ふいをつくように啓史は沙帆子の首筋に顔を寄せてきた。
わ、わっ!
動転している間に、啓史は息を吸い込み、すぐに顔を戻した。
「風呂上がりの匂いがするな」
ううっ。恥かしいけど、嬉しい。わたしもお返ししたい。
どうにもその欲求を押さえられず、沙帆子は思い切り爪先だって、啓史の首筋に顔を寄せて匂いを嗅いだ。
わっ、いい匂い。
「沙帆子!」
驚かせたようで、啓史は叫び、ちょっと身を引く。
彼を驚かせたことが楽しくて笑っていたら、啓史は「この野郎!」と言いながら沙帆子の耳を掴んできた。
「ななっ」
慌てて抵抗したら、「なにやってんのよ?」と母が声を掛けてきた。
ふたりして、ピタリと動きを止め、両親に振り返る。
「いえ、なんでも」
啓史がクールに答えたが、彼の手は沙帆子の耳を掴んでいるわけで……
「せ、先生、耳!」
小声で言ったら、啓史はパッと手を離した。
「ほんと、あんたたち仲がいいわねぇ。いよっ、新婚さん」
「ママったら」
文句を言いつつ頬が赤らむ。
「仲が良いと思われるんだな?」
啓史は、ひどく不思議そうに小声で呟く。
わたしも先生と同じように思うけど、まあ、ママらしいかな。
「芙美子ちゃん、いまのはどうみても仲がよさそうには……」
幸弘が普通の意見を申すが、芙美子は「違う違う」と言いつつ、手を横に振る。
「照れ臭さの裏返し。そうよね、啓史君?」
愉快そうに言われた啓史は、なんと驚くほどに顔を赤らめた。
「ちょっと出てきます」
そう言った啓史は沙帆子の手を掴んでくる。
「えっ?」
驚いている間に、沙帆子は啓史に手を引っ張られ、部屋から出ていたのだった。
つづく
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