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13残念の意味
「あ、あの……啓史、さん」
部屋から出たところで、沙帆子は啓史に話しかけた。
あれよあれよと部屋から出てきちゃったけど、さっきママと見た写真のような景色の見える窓。それを先生と眺めたい。
いいチャンスだ。
「なんだ? ほら、こっちに行くぞ」
啓史は聞き返してくれたが、沙帆子の手を取り、あらぬ方向へと進もうとする。
「えっ、どこに行くんですか?」
「いいから、ついてこい」
えっ、でも、わたしも……と思ったが、どうも啓史は目的があって、そこに沙帆子を連れて行きたいようだ。
窓のところは後からでもいける。
ここはせっかくだから先生の連れて行きたいところに連れて行ってもらおう。
そう考えたら、今度はどこに連れて行かれるのかわくわくしてきた。
それにしても、この宿はほんと迷路のようだ。
右に左に曲がっては進み、エレベーターにまで乗って上に上がる。
啓史が連れて来たのは、最上階だった。
けど、沙帆子たちが泊まる部屋とは別の棟だ。
エレベーターの扉が開き、その古めかしさにちょっとびっくりする。
エレベーターでやって来たとは思えない、ひなびた感じの建物だ。
「うわーっ。レトロですね。なんか江戸時代に迷い込んだみたいな」
「そこまでか?」
沙帆子の表現に啓史が笑いを堪える。
わわっ! 先生のこの表情好きかも。
どうにもときめいてしまう。
「ま、窓が小さな格子になってるのとか、江戸時代っぽくないですか?」
「こっちの棟は大正時代に建てられたらしい」
「わあっ、それでも凄く古いんですね。いや、格式があるって言った方がいいのかな?」
「そうだな。当時新鋭の建築家の手によって建てられたんだそうだ。数奇屋造り。だったか」
それから啓史は、色々と説明してくれた。沙帆子が色々と質問すれば、それにもすらすら答えてくれる。
「先生、なんでも知ってるんですねぇ」
「ホームページで見た」
啓史は笑いながら言う。
そうだとしても、そういう知識をすんなり頭に記憶する能力はやっぱり凄いと思うんだけど……
わたしなんて、ホームページを見たからって、右から左に知識は流れ出て行ってしまうもの。
「沙帆子、気づいてるか? 音がするぞ」
「音?」
「床だ」
そう言われて、床に意識を向けるが、音などしない。
「床の音って?」
そう聞いたら、啓史がくっくっと笑う。
「歩かなきゃ、さすがに音もしないぞ」
「あ、歩くんでしたか」
沙帆子は頬を染め、急いで三歩歩いた。
ぎっ、ぎっ、ぎっと、なんともレトロな音がする。
「わあっ、ほんとだ。古びた建物ならではの音ですね」
「歴史を感じるな。どれだけの人がこの床を歩いたんだろうな」
啓史の言葉を、沙帆子は心臓をドキドキさせながら聞いていた。
レトロな宿の最上階、そこにふたりきりでいて、啓史の魅力的な声を聞けているしあわせな現実。
うっとりしていたら、急に啓史が沙帆子の目を背後から塞いできた。
「せ、先生?」
「ちょっとそのまま前に歩け」
「な、なんなんですか?」
「いいから。ほら、歩け。五歩でいい」
「ご、五歩?」
戸惑ったが、言われたとおり、一歩二歩三歩と、前に足を進めた。
「よし、いいぞ」
そう言われて立ち止まる。
いったいなんなんだろう?
そう思ったところで、目を覆っていた手が外された。
パチパチと目を瞬いた沙帆子は、目の前に広がる光景に「わあっ」と歓声を上げた。
暗闇に浮かびあがる遠くの夜景。
「幻想的だな」
「は、はい」
レトロな建物から眺める夜景は、なんというのか現実を忘れそうになる。
沙帆子はその場でゆっくり足踏みしてみた。
ぎーっぎーっとかすかな音が足元で響く。
「いい宿だな」
「本当に」
そう答えた時、啓史の手が沙帆子の頬に添えられた。
ゆっくりと啓史の顔が近づけられる。
それとともに沙帆子の心拍数が跳ね上がる。
唇が触れる寸前目を閉じたが、チンという音が聞こえ、啓史がハッとして身を離した。
な、なに?
「へーっ、ここが展望台?」
「なんかボロっちくねぇ」
若い男女が数組ぞろぞろとエレベーターから出て来た。
彼らはこの場所をさんざん腐しながら、沙帆子たちのいる方へ歩いてくる。
この素敵な場所を、そんな風に言うなんて……
すると啓史は沙帆子の手を引くようにして、エレベーターに向かう。
沙帆子としても、この人たちとこの場所を共有したくはなかったから素直に従った。
「わっ、見てよ。いい男」
通りすがるときに、ひとりの女性が興奮した声を上げた。
小声だったが、しっかり聞こえた。
がやがやと騒がしい中だったが、数人の女性がその声に反応して啓史に視線を向けてきた。
すると啓史は、沙帆子を自分に引き寄せ、まだ扉が開いたままだったエレベーターに乗り込んだ。
扉が閉まり、なんとなくふたりして顔を見合わせてしまう。
あの場所で、あの幻想的な夜景を、もっとふたりきりで堪能したかったのになぁ。
「残念でしたね」
思わずそう口にしたら、啓史が驚いたように眉を上げた。
「残念だったか?」
そう言われて、沙帆子は戸惑った。
「えっ? だ、だって、先生も残念だったでしょう?」
「もちろん残念だったが……お前がそう言うとは思わなかった」
うん? どうして先生、からかうように言うんだろう?
眉をひそめていたら、啓史が小さく噴き出した。
そこでエレベーターの扉が開く。四階だ。
一階まで降りるのだと思っていたのに?。
「先生、四階でいいんですか?」
「ああ。もう一か所、お前と行っておきたいところがある」
お前と行っておきたいという言葉に、喜びが膨らむ。
旅先の雰囲気に呑まれてか、それとも互いに浴衣姿だからなのか、いつもより大胆な気分で、沙帆子は啓史に寄り添うようにして歩く。
ドキドキしつつも、沙帆子は先ほどの残念に対する啓史の反応が、やはり気になってきた。
「あの、……啓史さん。さっきの残念って?」
「それを言わせるのか? 周りにそこそこ人がいるぞ」
「はい? 人がいると言えないことなんですか?」
そこまで言って、沙帆子はようやく気づいた。
そ、そ、そうか。
わたしは、人がやってきちゃって、あの場所を静かに楽しめなくなったのが残念だと思って、残念って口にしたんだけど……先生は、未遂に終わったキスのことを言ってたんだ。
そうか、それでわたしが残念って言った時、驚いた顔をしたんだ。
「どうやら気づいたみたいだな?」
啓史は赤らんだ沙帆子の顔を見つめ、ちょっと意地悪そうに言う。
「あ、あれは、そっ、そういう意味で言ったんじゃ……」
しどろもどろに口にしていたら、啓史の手が沙帆子の肩に置かれる。
そして彼は足を止めずに沙帆子の耳元に顔を近づけ囁いてきた。
「けど、残念だった。だろ?」
「うーーーっ」
返事のしようがなく、思わず唸る。
さらに真っ赤になってしまい、沙帆子は啓史を睨んだが、啓史は楽しそうに笑うばかりだった。
つづく
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