|
20 笑うしかない
部活を終えた沙帆子は、果樹園の家に向かい、いつものように用心しつつ垣根のドアを抜けた。
垣根を越えると、人の目を気にしなくてもいい気持ちになれて安心できる。
空は相変わらずどんよりしているものの、ずっと降り続いていた雨は止んでいる。
けれど、小道はかなりぬかるんでしまっていて、沙帆子は歩きやすそうなところを選んでゆっくり歩いた。
今日の部活は前回に引き続いて物理室の掃除だった。
汚れの程度がひどいので、今週いっぱいはかかるかもしれない。
詩織の元カレである藤野は、さすがに今日は顔を出さなかった。
詩織は目に見えてほっとしていた。
沙帆子と詩織は、ロボット部がどんな活動をするのかいまいち理解できていないため、掃除が続くことに不満も感じないのだが、森沢と広澤、そして矢島の三人は、早く正式に部活をスタートさせたくてたまらないようだ。
彼らの掃除への取り組みは凄かったらしい。なんの器具やら分からない代物を丁寧に磨いているとき、三人の様子を覗いてきた啓史が苦笑しつつ教えてくれたのだ。
まあ、千里も心待ちにしているひとりみたいだよね。
ともかく、わたしとしては掃除であれ何であれ、佐原先生と一緒の時間を過ごせるんだから楽しかったなぁ。
にまにましていた沙帆子は、頭上に枝を張り出している桃の木を見上げた。
青い実がいくつもついている。
六月になったらたわわに実り、食べられる。
啓史と収穫して、笑いながら食べている図を想像してにやついてしまう。
楽しみだなぁ。
ウキウキしながら届くか届かないかの距離にある青い実に向かって、思い切り手を差し上げる。
すると、弾みでぬかるんだ泥に足を取られた。
「ああっ!」
叫んだ沙帆子は、見事に尻もちをつき、勢いが過ぎて気づいた時には仰向けに転がっていた。
「う、うそ?」
呆けた声で呟く。
じわりと肌がしめってきた感触に沙帆子は慌てて立ち上がろうとし、あろうことか今度は前向きにつんのめった。
「…………」
呆然自失と言う言葉は、こんなときに使うのだろう。
ぬかるんだ地面に泥だらけになって四つん這いになっている自分……
この状況を受け入れらず、しばし真っ白になっていた頭が、ようやく活動を再開する。
沙帆子は両手をついて起き上がり、制服の無残な状態に乾いた笑いを漏らした。
大惨事だよぉ~。
いや、笑っている場合じゃないんだけど……だって、もう笑うしかないよぉ……
強烈に情けなさが湧き上がり、沙帆子はがっくりと肩を落とした。
気持ちを立て直し、のろのろと立ち上がる。
とにかく、この泥をなんとかしなきゃ。
このまま家に入ったりしたら、家の中を泥で汚してしまう。
あっ、そうだ。鞄の中にタオルがある。
持ち主同様に汚れてしまった鞄を取り上げ、泥で汚れた手で鞄を開けてタオルを取り出す。
しかし……
だっ、駄目だぁ~。
こんなもので拭いたところで、この全身の泥はどうしようもない。
途方に暮れた沙帆子は、ふと思い出した。
そうだわ。家の外に水道があるんだった。
もう転んだりしないように、沙帆子はその場所まで慎重に移動し、蛇口をひねった。
まず手を洗ったが、水はかなり冷たく、これを全身に浴びるのかと思うと躊躇ってしまう。
でも、浴びるしかないもんね。
とにかく泥を落とさないと、家には入れないんだもん。
沙帆子は、果樹園から続く道に目をやった。
佐原先生、まだ戻ってこないよね?
こんな無様な姿、先生には絶対見られたくない。
その気持ちに後押しされ、沙帆子は思い切って水をかぶった。
あまりの冷たさにぶるっと身を震わせてしまったが、ぐっと全身に力を入れて水を浴び続ける。
もっ、もお、こっ、このくらいで、い、いいかな?
冷え切ってしまって歯の根が合わない。
ガチガチと歯を鳴らし、蛇口を締めた沙帆子は、タオルで水気を拭った。
もちろん、いくら拭ったところで服はぐっしょり濡れたままだ。
何はともあれ、啓史はまだ戻っていない。さっさと家に入ってシャワーを浴びてしまおう。
震える手で鍵を開け、とにかく家に入ったことに安堵する。が、浴室の方向を向いて、ため息が出た。
「ここで、服を全部脱いで上がるしかないよね」
沙帆子はシャツのボタンをはずしつつ、外の気配を窺う。
まだ車の音は聞こえてこないが、早ければ、啓史が戻って来てしまう時間なのだ。
よし、急げっ! 急ぐんだわたしーーっ!
急く気持ちとは裏腹に、濡れそぼった服はなかなか肌から引き剥がせない。
イライラが怒りに代わる。
「もおっ、早くしないと先生が戻って来ちゃうのにーっ!」
叫んで怒りを爆発させつつ、必死に服を引き剥がす。
焦る気持ちがもどかしく、足をバタバタさせながら制服を脱ぎ終わり、残りは靴下だけと少し安心したところで、なんと車の音が聞こえて来た。
うそっ、先生帰って来ちゃったの!
いまの自分の姿を改めて眺め、沙帆子は真っ青になった。
ブラとショーツだけの姿だ。
「ま、待って、待って、待ってーーーっ」
意味もなく叫びながら、靴下の片方を必死になって脱いだものの、かなり時間がかかり、それ以上その場にいられず、沙帆子は濡れた靴下を片方履いたまま浴室に飛んで行った。
浴室のドアを背に、ハーハーと荒い息を吐く。
ま、間に合った!
と思ったが、追いかけるように「おい、沙帆子?」と啓史が呼びかけてきた。
思わずビクーンと身体を揺らす。
「は、はいっ!」
「いったいどうしたんだ?」
「ど、どうとは?」
焦っているせいで状況説明が頭に上らず、そんな言葉を反射的に口にしてしまう。
「……」
どうしたのか啓史は黙り込んでいるので、沙帆子は焦った。
「あの、先生?」
「玄関先に、水浸しの制服が脱ぎ捨ててあったが」
そっ、そうだった!
浴室に逃げ込めて、間に合ったと安心しちゃってたけど……
下着だけのみっともない姿は見られずに済んだけれど、醜態を晒したことに変わりはない。
「そっ、それがそのぉ……」
説明しようとしたけれど、そこで全身がぶるっと震えた。
「あ、あの……とにかく温かいシャワーを浴びたいんですけど……身体が冷え切っちゃってて……」
「わかった」
その言葉とともに、啓史がこの場から去ってしまう気配を感じ、沙帆子は慌てて彼に声を掛けた。
「あのっ、玄関の服、そのままにしといてください。あとで片付けます」
「そんなことより、とにかくお前はシャワーを浴びろ」
そう口にする啓史の声は、ちょっとくぐもって変だった。
そのことが気にかかり、「あの?」と声を掛けたら、押し殺した笑い声が聞こえてくる。
わ、笑ってる?
「せっ、先生!」
黙っていられずに強めに呼びかけたら、「いや、なんでもない」と返ってきた。
「なんでもないって、なんなんですか?」
不服を込めて言う。
確実にわたしのことを笑ってたくせに……
たが、いくら待っても啓史の返事はなかった。
なに、もう行っちゃったの?
「もおっ」
中途半端で会話が途絶え、なんとももやもやする。
あの笑いは、わたしの身に起こったことを想像してのものに違いないよね。
むーっ!
赤くなった頬を膨らませたが、文句を言う相手は近くにいないし、身体が冷えて身が震えている。
沙帆子は慌てて熱いシャワーを浴びたのだった。
つづく
|
|