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4 有意義な時間
「ほんと凄いわね」
沙帆子の隣に並んでいる千里が、半端呆れたように口にした。
いま、ふたりの目の前には、たくさんのよくわからないものが並んでいるわけで……
これらすべて、物理の実験に使われる器具らしい。
ここは、物理の第一準備室だ。
沙帆子と千里は、啓史にここに連れてこられて、作業の細かい指示を受けた。
指示された器具だけをきれいにすることになっている。指示されていない器具にはけして触れないようにと注意された。
この部屋の隣に第二準備室があり、そちらが啓史の私室らしいのだが、そっちは啓史と広澤と森沢の三人で掃除をしている。
いまも、ドア越しに彼らの話し声が漏れ聞こえてくるのだが、はっきりとは聞き取れない。
佐原先生の声が聞こえると、何を話しているのか気になっちゃうんだよね。
「それにしても、詩織と佐原先生のやりとり面白かったわね」
千里がくすくす笑いながら、潜めた声で言う。
沙帆子も思わず笑った。
詩織も、わたしたちと一緒がよかったんだろうけど……藤野と矢島のふたりと物理室の掃除をやるように、啓史から指示されたのだ。
詩織は、千里や沙帆子と一緒がいいとお願いしたのだが……
佐原先生ってば、詩織をじっと見つめて、『器具は高価だからな』と口にした挙句、『江藤、壊さない自信はあるか?』なんて、真面目に尋ねるんだもの。
それで詩織は、素直に啓史の指示に従い、物理室の掃除を引き受けたというわけだった。
「これ、なんなのかしら?」
器具の一つを手に取り、千里はしげしげと見る。
「なんなんだろうね?」
沙帆子も首を傾げてしまう。
すると千里は手に取ったものを元の場所に戻し、また別の器具を取り上げた。
「これとかも、まったく使用目的がわかんないわね」
「うん。どれもこれも謎の物体だよね」
千里に同意し、沙帆子は周りを見回す。
「それじゃあ、沙帆子、さっそく取りかかろうか?」
千里が声をかけてきて、沙帆子は「うん」と頷き、器具のひとつを手に取った。
「これって、よく見るけど……なんだっけ?」
「それは音叉でしょう」
「オンサ? これも物理の授業で使うんだろうけど……叩いて音を出すんだよね?」
「音波じゃないの。音の波を計測するとか」
「ははぁ。わかるような、わからないような……」
首を捻っているところにドアが開き、啓史が入ってきた。
彼は沙帆子を見て、彼女が手に持っている音叉を見る。
「佐原先生、この音叉って、どんな授業で使うんですか?」
「共鳴現象とか、ドップラー効果とかだな」
へっ?
共鳴現象ってのはなんとなくわかるけど、ドップラー?
「ドップラー効果って、どんなものなんですか?」
千里は興味津々で質問する。
「音は、近づいてくる時と遠ざかっていく時で音の高さが違ってくる。救急車のサイレンとかな。それがドップラー効果だ」
説明してくれた啓史は、沙帆子から音叉を取り上げ、あたりを見回す。
「たたき棒はどこだ?」
「たたき棒? 音叉を叩く専用の棒とかがあるんですか?」
「ああ。硬質の……ああ、あれだな」
啓史は棚に歩み寄り、たたき棒を取り上げて戻ってきた。
「軟質たたき棒もあるはずなんだが……まあ、いいか。片付けていればそのうち出てくるだろう……」
ひとりごとのように口にしていた啓史は、音叉を棒で叩き、沙帆子と千里の前をゆっくりと移動させた。
「あっ、ほんとだ。音が変化する」
沙帆子は思わず声を上げてしまった。
「これがドップラー効果ですか?」
千里が言うと、啓史は「そうだ」と答える。
「面白いですね。物理では、こういう実験をさせてもらえるんですね?」
「ああ。世の中に普通にあるものが、こういう実験をすることで、見る目が変わってくる」
確かに、いまのちょっとした実験一つで、沙帆子もわくわくしてしまった。
「さあ、実験は終わりだ。作業に戻ってくれ」
「わかりました」
「了解です」
優等生の返事をした沙帆子と千里は、それぞれ乾いた布で器具のほこりを払い始めた。
啓史は行ってしまうのかと思ったら、沙帆子たちに触れないようにと指示した器具を、自分できれいにし始めた。
黙々と作業を続けていたが、千里が口を開いた。
「それにしても、どれもこれもずいぶんほこりにまみれてますね。長いこと使ってないみたい」
「使っていなかったんだろうな」
啓史は答えてくれたが、彼の意識は、自分がいま磨いている器具に向けられているようだ。それは円形の透明なガラスで、時計みたいなのとか、他にも色々とくっついている。
いったいなんなんだろうなぁ?
啓史に聞いてみようかと思ったが、千里がさらに会話を続ける。
「でも、必要なものだから揃えてあるんじゃないんですか?」
「俺は色々使うぞ。実験楽しみにしててくれ」
啓史が楽しそうに言い、沙帆子の胸も弾んでしまう。
「はい。楽しみにしています」
化学の実験も、とても面白かったんだよね。
時間がきてしまい、もちろん掃除は終わらなかったけれど、今日のところは終わりということになった。
「俺は森沢と広澤に声をかけてくる。お前たちは物理室に戻っていてくれ」
啓史はそう言って、自分の第二準備室に入っていった。
正直なところ、啓史についていきたかった。
これから先生の部屋になるところだし、見たいんだけどなぁ。
啓史の雰囲気から、どうも沙帆子たちには見せたくないみたいに感じた。
「沙帆子、入りたかったんでしょう?」
からかうように千里から聞かれ、どうにも頬が染まる。
「そっ、それは……まあ、そうだけど。……なんか、先生わたしたちを入れたくないみたいだったし……」
「まだ片付いてないからじゃない」
「そういうことなのかな?」
「よっぽど汚かったのかもしれないよね」
「そうなのかな?」
「物理室も、ここもひどい汚れようだったし……」
「でも、物理室の掃除は生徒がしてるでしょう? 化学室だってそうだし……」
「好きな先生が担当している教室は、生徒もきれいにするけど、そうでない場合は手を抜いちゃったりするのかもね」
「ああ、なるほど」
納得させられ、つい頷いてしまう。
もちろん、どの教室だってしっかり掃除をするべきだけど……
「教師がもっときれいに掃除をするように指導すれば、生徒もちゃんと動くんだろうけど……そういうこともなかったってことよね」
沙帆子は物理の教諭を思い浮かべた。
きりりとした先生ではなかったかな。
「けど、これからはどこの教室よりもきれいになるんじゃないの。佐原先生の教室になったんだもの」
千里は沙帆子を見て、笑いながら言う。
そうだといい。
そのときドアが開き、森沢が顔を出した。
「集合だぞ」
「ああ、ごめん」
千里が返事をし、ふたりは森沢と物理教室に戻った。
物理教室は、かなりきれいになっていた。
詩織たちはそうとう頑張ったようだ。
「助かった。みんなありがとう」
「佐原先生、ここはきれいになったようだけど……向こうはまだまだ」
広澤が第二準備室のあるほうを指して言うと、千里も口を挟む。
「第一準備室のほうも、まだまだ終わりそうにありませんよ」
「うん。次も掃除だな。部の活動は、掃除が終わってからってことに……」
森沢がそう口にしていると、啓史が森沢の肩に手を置いた。森沢は口を閉じて啓史に顔を向ける。
「掃除ばっかりさせてたら、嫌になって退部するやつが現れるかもしれないぞ」
啓史から苦笑しつつ言われた森沢は、なぜか藤野を見る。
「辞めないよな?」
「な、なんで僕だけに聞くんだ?」
藤野は慌てたように聞き返す。
すると場が笑いで湧き、藤野が顔を赤らめた。
「俺だけ部外者のような気がして、落ち着かないんだけど……」
藤野の俯きながらの発言に、森沢が慌てた。
「悪い悪い。そんなつもりじゃなかったんだ。けど、強引に勧誘したから……もちろん、いまさら君が辞めるとは思っていないぞ」
へーっ、森沢君、藤野君を強引に勧誘したんだ?
けど、どうして藤野君を?
矢島君同様に、彼もロボット開発部に役立つ人材なのかな?
きっとそうなんだろう。
そんなわけで、ドキドキだった部活の第一日目は終わった。
啓史と一緒に器具を磨いたりして、沙帆子にとってはとても有意義な時間だった。
物理の器具を丁寧に磨いている啓史を見られたのも、音叉を使ったちょっとした実験も、沙帆子にとっては楽しいばかりだった。
そういえば……あの実験って、なんて言ったっけ?
えっ、えーっと……ほにゃらら効果……あ、あれぇ?
せっかくの夫の特別の教えだったというのに、残念なことに、新妻の頭からはすっかり消え失せてしまっていたのであった。
つづく
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