にゃんこシッター

書籍より掲載
第4話 儚く散った夢



真優は洒落た一戸建ての家を見上げた。

ここが、慎也さんのお姉さんの家か……

駐車場には普通車と軽自動車が停まっている。
慎也は塀の前に車を停めた。

車から降りる慎也を黙って見ていると、彼はこちらを振り返ってきた。

「どうした?」

「は、はい? どうしたって、なんですか?」

「いや、君も一緒に行くだろ?」

「いえ、わたしはここで待っています。わたしのことは気にしないでいいので、慎也さんごゆっくりどうぞ」

リンちゃんを引き取ってくるだけじゃなくて、姉弟で話だってあるだろう。
赤の他人がついていく必要はない。

だいたい真優は足を怪我をして、みっともないことになっている。
他人様の目にさらしたくない。

「君自身を見てもらったほうがいいと思うんだ」

「わたしを見てもらう……?」

「どんなひとが面倒を見てくれるのか、飼い主としては気になるんじゃないかと思うんだ。君に会えば、姉も安心する」

ああ、確かにそうかもしれない。
もし自分が逆の立場なら、会っておきたいと思うだろう。

「で、でも……この格好で出て行きたくないんですけど……」

そう言うと、慎也はハッとして顔をしかめた。

「ごめん。すっかり忘れていた」

慎也は慌てて助手席側に回り込んできた。そしてドアを開ける。

「すぐに手当てをしよう。姉に頼むから……ほら、行こう」

「いえ、いいですよ。慎也さんのお姉さんに、そんなご迷惑をかけては……」

「いいから」

慎也は真優の腕を掴み、強引に外に引っ張り出そうとする。

彼女は仕方なく車から降りた。

「これは、ひどいな!」

真優の足を見た慎也が叫んだ。

彼の大声につられて真優も自分の足を見ると、門燈の光ではっきりと確認できた。

血まみれになっていて、まるで大怪我をしているかのようだ。

でも、そんなに痛くないし、実際はそれほど深い傷ではないはずだ。

たぶん手当てもせずに車に乗っていたから、その間にストッキングに血が滲んでしまったんだろう。

「は、早く手当てを……いや、病院のほうがいいか?」

早口でまくしたてる慎也を、真優はなだめた。

「痛くないです、全然。病院なんて行く必要ないです。酷く見えるだけですよ。あの、それより……もしかすると車のシートが血で汚れちゃったかも。そっちを早く確認したほうが……」

助手席を確認しようとした真優は、強い力で手を引かれる。

「そんなのどうでもいい。いいから、来い」

慎也は真優を強引に家の門まで引きずっていく。

「真優、ほんと悪かったな」

インターフォンを押しながら、改めて謝罪され、真優は首を横に振った。

「大丈夫ですってば。そんなに痛くないですし、きっと小さな傷ですよ。この血を拭ったら、慎也さん、拍子抜けしちゃいますよ」

 安心させようと笑いながら言うと、慎也が真優をじっと見つめてきた。

彼と視線が合った途端、ドキドキしてきた真優は目を泳がせた。

慎也は「ふっ」と笑い、なぜか真優の頭に触れてきた。そして、髪をわしゃわしゃとされる。

「な、なんですか?」

どう反応したらいいのかわからない。

髪をわしゃわしゃにされたというのに、こんなにもドギマギしてしまうなんて……

「慎。遅いじゃないの。待ちくたびれちゃったわよ」

真優が自分に困惑していると、インターフォンから責めるような女性の声がした。

「姉貴のやつ」

インターフォンを睨みつけながら、慎也はむっとしている。

「ひとにものを頼もうとするやつの態度じゃないよな? 真優」

同意を求められても困る。

「あ……まあ、ノーコメントで」

苦笑しつつ答えると、慎也が面白くなさそうな顔をする。

彼が真優に何か言おうとしたとき、玄関が開いた。

「何やってんの? 早く入っていらっしゃいな」

「ああ。いま行く」

慎也は真優の手首を掴み、玄関に向かう。

真優は緊張しつつ彼についていった。

「あら、珍しいわね、あんたがスーツにネクタイだなんて……あ、あらっ?」

真優に気づいた慎也の姉は、戸惑った声を上げた。

「実は、俺のせいで彼女に怪我をさせちまったんだ。姉貴、悪いけど」

「ま、まあっ! ひどい怪我じゃないの。は、早く入って、ほら」

血だらけの足を見た慎也の姉は、慌てて家の中に招いてくれた。





十分後、真優の足には慎也の姉によって包帯が巻かれていた。

大袈裟だと思ったが、濡れたタオルで血を拭ってもらったら、意外と傷は広範囲に及んでいた。
そこで、ガーゼを当てて包帯を巻いてもらったのだ。

けれどしょせん擦り傷だ、数日もあれば治るだろう。

まあ、傷痕が完全に消えるまでは、時間がかかりそうだけど……

「ありがとうございました、お姉さん。すみません、お手間をかけてしまって」

「何を言うの。あなたが謝ることないわ。この、ふつつかな弟のせいなんだから」

「ふつつかで悪かったな」

「あら、反論できるの?」

「いや……悪かったと思ってる。真優、ほんとすまなかった」

「もういいですよ。結局、たいした傷でもなかったし……」

「たいした傷だったわよ。ねぇ、どうしてこんな怪我を? 慎、あんた彼女に何をしたのよ? まさか、痴話喧嘩の挙句、カッとして突き飛ばしたりしたんじゃないでしょうね? そんなやつ男の風上にもおけないわよっ!」

「勝手な妄想をして怒鳴らないでくれないか。そんなんじゃない」

「なら、どうしてこうなったのよ?」

「あ、あのっ」

口喧嘩を始めた姉弟の間に、真優は慌てて割り込んだ。

「わたしが転んでしまっただけなんです。ほんとに慎也さんは悪くないので」
「まあっ、真優ちゃん、健気ねぇ。慎、あなたずいぶんとかわいい彼女見つけたじゃないの」

か、彼女?

誤解されて焦った真優は、思わず慎也のほうを見た。
彼も困った顔をしている。

「それじゃ、俺らそろそろ帰るから……姉貴、リンは?」

え? どうして否定しないの?

慌てる真優をよそに姉弟の会話は続いていく。

「いつ迎えに来てくれてもいいように、夕方からゲージに入れておいたわ。もう、あの子、ゲージが大嫌いだから、大変だったのよ」

ゲージが嫌いかぁ。
リンちゃんは繊細なのね。

丸々としたノルウェージャンフォレストキャットを思い浮かべて、真優は目尻を下げた。

いよいよご対面だ。とんでもない流れで引き受けることになったが、かわいいにゃんこと過ごせるのだ。めいっぱい楽しんじゃおう。

胸にぎゅっと抱きしめて、やわらかな毛に頬ずりして……そしたら、にゃんこがぺろぺろっとほっぺたを舐めてきて、いやーん、もおっ、くすぐったーい……とかね。

むっふふーっ。

「……そんな話を聞かされると、俺たち、先が思いやられるな」

慎也はしかめっ面をして、疲れたように言う。

そうだった、彼は猫が苦手なんだっけ。

「慎也さん、大丈夫ですよ。わたしがお世話しますから」

くすくす笑いながら言うと、慎也から嬉しそうに声をかけられる。

「ありがとう、真優」

その笑顔はとんでもなく素敵だった。

どきりとした真優は、慌てて視線を逸らす。

すると、慎也の姉が、急に笑い出した。

おかしくて仕方ないというように、腹を抱えて笑っている。

「姉貴、何を笑ってんだ? 早くリンを……」

「だ、だってぇ。あんたが女の子にデレデレしてる姿なんて初めて見たから。こんなかわいいところがあったのねぇ」

「あのなぁ〜。……ま、まあいい。とにかくリンを連れて来いよ。早くしないと、俺たちこのまま帰るぞ!」

慎也が腹を立てている一方で、慎也の姉は笑いながら部屋を出て行った。

ふたりきりになり、微妙な空気が流れる。

「……なんか、姉貴を誤解させたみたいだ。悪い」

慎也が頭を下げる。

そんなしおらしい態度をとられると、先ほどのまでの戸惑いはどこへやら、こっちが申し訳ない気分になってくる。

わたしなんぞと恋人同士と誤解された挙句、デレデレしてるなんて言われて……

込み入った事情を説明するものも面倒になり、真優は彼の姉の前では恋人のフリをすることに決めた。

「わたしのほうこそ、すみません」

「は? なんで君が謝るんだ?」

「だって……」

「お、お待たせ」

何やら苦しげな慎也の姉の声を耳にして、真優は振り返った。

慎也の姉は、大きなゲージをひどく重そうに抱えている。

へっ?

ゲージの中を見て、真優は言葉を失った。

丸々っとしたかわいいにゃんこのイメージが、ガラガラと音を立てて崩れてゆく。

慎也さんが「でっぷり」と表現したが……ま、まさにその通りだ!

「おいおい、姉貴。リンのやつ、また太ったんじゃないのか?」

「そんなことないわよ。前からこんなものだったわよ」

「リン、お前、すでに猫じゃないな」

 ゲージの中から自分を見つめているリンに、慎也が言う。

「にゃごーーっ!」

獰猛そうな鳴き声に真優は震え上がった。

明らかにリンは、慎也を威嚇している。

むっ、むちゃくちゃ、こ、こ、恐いんですけどぉ〜。

こんなにゃんこ、とてもじゃないけど触れない。近づける気がしない。

にゃんこを抱きしめて頬ずりする夢は儚く散り、いますぐトンズラしたい心境になった真優だった。





   
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