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第十三話 黒髪の少女
「あーっ、なんかやだー」
花売り娘が心底嫌そうな声でそう言ったとき、ユウセイの目も、花売り娘と同調してしまいそうになる代物を捉えていた。
「なんなんです。あれは? 気味が悪いな」
真っ黒な雲のようなものが、地面でとぐろを巻いている。
しかも、まだ遠目だというのに、かなりでかく見える。
「ちょっと、調子に乗り過ぎてるわ。もおっ」
花売り娘は、気分を害したように右足を振り上げ、浴槽の底を力いっぱいドンと踏んだ。
「あれが、あの危険な黒き魔女の住処なのですか?」
ユウセイは、黒い雲をじっと見つめている老人に問いかけた。
「……まあ、そうです」
「ケイスケ、あんた、ちょっとどうにかしなさいよ」
異様な雲を指さし、花売り娘は老人を怒鳴りつけてきた。
「わかった」
老人は気分を害した様子もなく、こともなげに頷く。
たいしたひとだと、感心する。
「ご老人、どうなさるおつも……」
ユウセイは途中で言葉を止めた。
両手の拳をぴたりと合わせた老人が、拳をすーっと離したそこに、真っ白な棒が出現したのだ。
棒は一メートル半くらいまで伸び、老人は軽い感じで棒を一回転させてからキャッチした。
なんとも言葉にならない、見事な手際だった。
「それは?」
「浄化の杖ですよ」
「浄化?」
「黒き魔女は、自分の力に驕り、調子に乗りすぎたらしい。自分で作り出した闇の魔力に取り込まれそうになっている」
聞いた言葉の意味が半分も理解できなかったが、ともかくあの真っ黒な雲をどうにかしようと考えているらしい。
船がこれまでよりも速度を上げ、真っ黒な雲はぐんぐんと迫ってくる。
ユウセイは、船の前へと出て行く老人の邪魔にならぬよう、後ろへと退く。
老人が杖を軽くあげたとき、花売り娘の浴槽の船は、彼らの船の真横まで移動してきていた。
そのとき、ぐんっと、すさまじぃ圧力を全身に感じた。
勢い倒れそうになったユウセイは、危ういところで腰を落とし、体制を立て直した。
眉を寄せて老人を窺ってみたが、老人は先ほどと同じ姿勢で、これといった変化は見られない。
老人は、この圧力の影響を受けていないようだった。
数秒続いた圧力が徐々に弱まり、ユウセイは大きく息を吸い込んだ。そして落ち着いたところで、老人と、前方にあった黒い雲の様子を確かめてみた。
「うん?」
異様な雲はどこにもない。ただ、屋敷が姿を現している。
老人が消し去ったのか?
「すごいな」
感心して声を上げたら、愉快がっている笑い声が聞こえてきた。
どう考えても、彼が笑われているようだ。
「笑うことはないでしょう?」
ユウセイは左側に顔を向け、花売り娘に文句を言った。
「感心してる場合じゃないぞって、思っただけ。ほら、行くわよ」
花売り娘が言ったところで、船は大きく弧を描くようにして屋敷へと迫る。
「出て来ないな」
船がテラスに横づけになり、屋敷の方を窺いながら老人が思案顔で言う。
花売り娘の浴槽はテラスに着地し、彼女はふわりと浮きあがってテラスに足をつけた。
ユウセイは船の縁に足をかけ、テラスに飛び移った。
老人のほうは、いつの間にかユウセイの隣に立っていた。
窓に歩み寄り、花売り娘が窓に手を掛けると、カギは掛けてなかったようで造作なく開いた。
「やっぱり!」
叫んだ花売り娘が駆け出し、ベッドにもたれかかっている人物に手をかける。
「良かった。大丈夫なようだわ」
「大丈夫って……」
困惑してしまい、言葉が出ない。
花売り娘が大丈夫と言ったのは、危険な黒き魔女のことなのだ。
「どういうことなのです?」
「さっきの闇の雲ですよ。私が与えた闇の魔力を、調子に乗って使い過ぎたんですよ」
老人は歩み寄り、黒き魔女の額にそっと手を触れる。
「貴方が与えた?」
老人が触れた部分に、ふわっと明るい光がさし、魔女の瞼が震えた。
「どうです? 気分は?」
「……ああ……ごめんなさい。どうにも止められなく……なってしまって……」
「やり過ぎですよ」
「本当に、言葉もないわ……ああ、ユウセイさん、来たのね、いらっしゃい」
苦しそうな表情でありながら、親しげに言葉をかけられ、ユウセイはわけがわからず頭に手を置いた。
この声……よく知っている。
「どういうことです? どうしてそんな姿で、こんなところにいるんです?」
問い質したユウセイに、黒き魔女は疲れたような吐息を吐く。
「ここをお忘れなの?」
哀しげな瞳で言われ、ユウセイは当惑した。
間違いない。
黒き魔女だと思っていた女は、彼の祖母、アリシアだ。
「いったい、どういうことなんです?」
花売り娘の入れた薬湯の効き目がよかったらしく、元気を取り戻したアリシアに、ユウセイは厳しく問いかけた。
場所は屋敷の居間に移動してきている。
「貴方の知らぬことが色々とあるのよ」
言い訳のように口にする祖母は、黒き魔女の扮装から、いつもの姿に戻っている。
「あの攻撃はなんだったんです。……本気でしたよね?」
ユウセイは冷たく尋ねた。
「本気でやらなきゃ、ばれちゃうじゃない?」
「私に問うように聞かないでください。あんな力、どうやって身につけたんですか?」
「お師匠様に借りたのよ。あの黒き魔女の扮装に、魔力が付加されてたの。いまはもう使えないわ」
そういうことか。
いまになって、老人の口にした言葉が納得できた。
闇の魔力を使えるようになった祖母は、調子に乗ってやりすぎてしまい、あんな事態に陥ったのだ。
そして、倒れてしまったのか。呆れてならない。
「まったく、無茶をなさる。ですが、なぜこんなことを?」
「まだわからないの、王子様?」
呆れたように花売り娘が言う。
「話していただかないと、わかりかねますね」
やれやれというように花売り娘が肩を竦めたとき、ユウセイは大事なことをようやく思い出した。
「彼女は?」
叫びながら、ユウセイは勢いよく立ち上がった。
「彼女はどこです? 行方不明の。ここにいるんじゃないんですか?」
「まあまあ、ちょっと落ち着いて」
「そうよ。話はこれからよ、ユウセイさん、お座りなさい」
老人とアリシアから言われ、ユウセイはむっとして座り込んだ。
「いるんですか?」
「いるわ」
「どこに?」
「会いたいの?」
そう聞かれ、ユウセイは口ごもった。
会いたい。会いたくてならない。
だが、その気持ちをさらけ出したくない。
「もちろん、無事なのですよね?」
確認するように言ったユウセイの言葉に、なぜか三人ともが黙り込んだ。
その沈黙にユウセイはどきりとした。
「落ち着いて、ユウセイさん」
すっと血の気が引き、動きを止めたユウセイに、アリシアが声をかけてきた。そして立ち上がると、ユウセイの腕をそっと叩き、立つように促してきた。
「いらっしゃい。会わせてあげるわ」
沈んだ声で言い、アリシアがドアに向かう。
ユウセイは気がかりを抱え祖母について行った。老人と花売り娘も、黙って後をついてくる。
「ここよ」
一つのドアを静かに開け、祖母が脇によける。
中央に天蓋付きのベッドがあり、誰かが寝ているようだ。
ユウセイは、部屋の入り口のところに立ち止まったままの三人に一度振り返ってから、ベッドに歩み寄って行った。
ベッドに横たわった娘の顔を、ユウセイは見つめた。
長い黒髪が枕に広がっている。
「マナ……ミ」
無意識に呼びかけたその瞬間、ユウセイは胸に強い衝撃を受けた。
「えっ?」
マナ……マナ……マナ……
頭の中で自分の声が響く。
愛しいものを呼ぶ声……甘い囁き。
「マナ!」
大きな声で呼びかけたユウセイは、困惑したまま背後に振り返り、祖母に向けて「マナだ!」と叫んでいた。
知ってる。私は彼女を知っている。
遠い昔……
記憶の中で、黒髪の少女が、ユウセイに向けてにっこり微笑んだ。
「信じられない。忘れていたなんて……」
精神に食らった衝撃の強さに耐えきれず、ユウセイは大きくよろめいた。
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