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第五話 奇妙な震え
川沿いの道を、川下に向かって優誠は歩き続けた。
老人は、あの危険極まりない女はもう現れないだろうと言ったが、どこまで信用できるかわからない。
丸腰でもあるし、彼は常に周囲に気を配りながら歩いた。
川下に下ってゆけば、集落が見つかるだろう。
そこに住まう者に、城の場所を聞けば、帰り道などすぐにわかる。
この国の者で、城の場所を知らぬものなどいないのだから。
先ほどの老人と、ユウセイをトラップに嵌めたらしい、あの花売りの正体はもちろん気になる。
あんなトラップが仕掛けられるのだから、魔術師なのだろうが。もちろん、あの危険な女も……
魔術師という存在はそんなに多くないが、それほど珍しくもない。人によって、できることも力の大きさも違う。そして、敵となる者もいるし、味方となってくれる者もいる。
魔術師たちを国で統治できたらいいのだろうが、それは法の定めで、やってはならないことになっている。
ユウセイは、歩きながら顔をしかめた。
この国には、やっかいな法が多すぎる。そして、やっかいな法ほど、何があろうと守らねばならない。
ひとの意志を無視するような法に縛られるなんて、我慢ならないのに……
ユウセイの脳裏に、先ほどの老人の言葉が蘇る。
彼の替え玉が用意されたとか、言っていたな……
試練を無事に終えれば、もとに戻れるとも言っていた。
それはつまり、彼が戻らなければ、その替え玉が王子であり続けるということか?
その話に少々惹かれた。
王子でなくなったならば、期限を守るためだけに、望んでもいない結婚をしなくてもよくなり、好きに生きてゆけるのか?
これからどう暮らしていくのか……平民となれば、生きるために仕事も探さなければならないし、大変だろうが、自由を手に入れられるというのは、かなりの魅力だ。
もちろん、それでは、王や王妃である両親のもとから去らねばならないし、トモキやテルマサたちとも別れることになる。なにより、ユウセイではない替え玉の王子が、いずれ王となるのでは、国の将来がさすがに不安だ。
戻るしかないか……結婚問題があっても……
考えに囚われ、ユウセイは知らず足を止めていた。
肩を落とし、ため息をひとつつき、顔を上げて進む方向を見つめる。
あの老人の家を出てから、三時間近く歩いたと思う。
いま何時なのかわからないが、まだ日は明るい。
それにしても、代わり映えのしない風景が続く。まだまだそうとうに歩かねば、集落はなさそうだ。ともかく、いまは進むしかない。
ユウセイは、歩き出す前に、なにげなく今来た道を振り返った。
うん?
三十メートルほど先に、木々に囲まれた民家がある。
なんだ、私ときたら、見落としたのか?
自分の不注意に呆れながらも、その民家を訪ねるため、彼は道を引き返した。
民家に近づくたびに、違和感が強くなる。
この家……似ている。
家の庭へと続いている階段を見て、ユウセイは気分が悪くなった。
川岸には、すでに見て知っている、おかしなドーム。
「疲れるだけですよ……」老人の口にした言葉が蘇り、処理できない憤りに、顔が引きつる。
どうやら、ここから立ち去ることは不可能なようだ。あの老人のもとに戻るしかないんだろう。だが……みすみす戻りたくない。
くそっ!
自棄を起こしたユウセイは、階段に座り、憤るまま拳で地面を打ちつけた。
老人の言うなりになるしかないという事実に、ムカツキが収まらない。
ユウセイは両手で頭を抱えた。
あの老人は、ユウセイがここにいるのを知っているのだ。
そのうち、家から当たり前のように出てきて「食事ができましたよ」と声をかけてくるのだろう。
そして、明日の朝には、武器をユウセイに与え、冒険に向かわせるんだろう。
あの老人に、いいように扱われるだけとは……自尊心が軋む。
「おーい、わーい、王子様ぁ。ほらほら、見て、見てぇ」
明るく元気な声が聞こえ、頭を抱えていたユウセイは驚いて顔を上げた。
「えっ?」
川の向こうから、けったいなものがやってくる。
浮いている丸太に、女がまたがっていて、それが右に左に旋回しながら、近づいてくるのだ。
ユウセイは呆然として、丸太と女が近づいてくるのを見守った。
丸太は気まぐれに軌道を変えながらも、川の上までやってきた。
「どうよ、王子様。ほら、ちゃんと飛べたでしょう?」
得意満面にユウセイに声をかけてきた女だったが、次の瞬間、丸太が機嫌を損ねたように、ぐるんと一回りし、そのあと、かなりのスピードで回転しはじめた。
「ぎっ、ぎっ、やーーーーーーっ!」
凄まじいスピードで回転し続ける丸太。花売りは振り飛ばされそうになり、両手で必死にしがみついている。
「君、だ、大丈夫かい?」
「だい……じょうぶな、わけない、じゃん。見てないで、た、た、助けなさいよぉ、あんた、王子様でしょう」
ユウセイはその言い草に呆れ返った。笑いも込み上げる。だが、花売りの状況は笑っている場合じゃない。
「君、どうする? あの老人を呼んでこようか?」
「ろ、老人?」
花売りがそう言ったとき、丸太が回転を止めた。
ふたりしてほっとしたのもつかの間、今度は逆回転を始める。
「うぎゃーっ! う、腕がちぎれる、振り落とされるぅ」
女には悪かったが、ユウセイは、この花売りが持っているカゴの中の花が気になってならなかった。
振り落とされて、川に落ちたりはしていないだろうか?
「君、花を落とさないように気をつけてくれ」
なぜか、ひどく心配で、女にすれば、理不尽な言葉が口をついて出る。
「はあっ? ちょっと王子様。あんた、頭がおっかしいんじゃないの? 振り落とされそうになってる、このわたしの心配を、まずしなさいよっ」
むっとした顔で花売りは怒鳴りつけてきた。彼女からすれば、それが当然だ。
だが丸太は、まるで花売りがユウセイを罵倒するのを邪魔するまいとするように、静止している。
「おい、君、回転が止まっているぞ。早く川を越えた方がいい」
花売りの女は、気づいていなかったようで、ユウセイの言葉を耳にして、改めて丸太に目を向けた。
「あら、ほん……」
花売りがそう言った瞬間、丸太が垂直方向にぐるんと回転した。
まさかの事態に「あ」と口にしてしまう。
だが次の瞬間、ユウセイは血相を変えて上着を脱ぎ捨て、川に飛び込んでいた。
花売りの女はびしょ濡れになりながらも、いまは水面に立ち、浮かんでいる丸太に激しい口調で文句を言っている。この花売りに助けなど必要ない。
もちろん彼女が水面に立っているということに驚きを感じたが、いまのユウセイにとって、そんなことはどうでもよかった。
あの花が、流されているのだ。
ユウセイはもがきながら泳ぎ、流されている花を全て拾い集めた。
その間無我夢中で、気づいた時には、彼は花を手にし、岸辺で激しく息をついていた。
「王子様」
老人の声がした。
苦しい息を吐いていたユウセイは、ゆっくりと顔を上げた。
目の前に、老人と花売りが並んで立ち、ユウセイを見下ろしている。
「泣いてるわ」
なぜか花売りは、泣きそうな顔で言う。
「……誰が?」
ユウセイは息を切らせながら、花売りに問いかけた。
「なんのことだかわかってないのね。……けど、いずれわかるわ」
「ああ、ともかく貴方は素晴らしい方で、よくやったということですよ、王子様」
老人は笑みを浮かべながら言う。
「さっぱり、わからない」
ユウセイはため息交じりに呟いた。
正直、こんな花のために、川に飛び込んだ自分が一番理解できない。
びしょ濡れのまま、手にしている白い花を見つめたユウセイは、濡れてしまった花をいたわるように、指先でそっと花びらにふれていた。
その瞬間、胸の奥に奇妙な震えが走った。
泣いている……花が……
いや、違う……
泣いているのは……泣いているのは……
わかるはずなのに、わからない……
もどかしくて、もどかしくて、気が狂いそうだ。
ユウセイは、自分の心臓のあたりを、痛いほどの力で掴んでいた。
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