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第九話 暗雲垂れ込める未来
「ちょっとぉ!」
大きな怒鳴り声が前方から聞こえ、温かなお茶を心地よく味わっていたユウセイは顔を上げてた。
怒鳴ってきたのは、花売り娘だ。
ひどく不機嫌な様子で、浴槽に仁王立ちして、こちらを睨んでいる。
「なんですか?」
のんびりとカップを口にしている老人は、返事をする気配などまるでなく、ユウセイが答えた。
「ケイスケ! あんた、何をちんたらしてんのよ!」
ちんたら?
ユウセイにすれば、花売り娘に、いったい貴方は何を怒っているのか? と聞きたいところだが……
あれだけイライラしていては、ユウセイの質問に答えてくれはしないだろう。噛みつかれるのがオチ。
ああ、そうか……自分だけ浴槽の船に乗船しているため、彼らのようにお茶を飲めないのが腹立たしいとか?
「彼女も、お茶を飲みたいのではないでしょうか?」
ユウセイの言葉に、老人はカップを口から離し、楽しげにくっくっと笑う。
「彼女は、お茶くらい、飲みたければ自分で用意しますよ。彼女が怒っているのは、ちっとも目的地に着かないからですよ」
「ああ、そうでしたか」
そう答えたものの、腑に落ちない。
なにせ、まだ出発して十分くらいしか経っていないのだ。
お茶を淹れてもらい、飲み始めたばかり……
「いつでもつけるんですよ」
「えっ? いつでもつけるとは……目的地に?」
「はい。実のところ、一瞬で着くんです。でも、それだとつまらないし、貴方に良くない」
「私に……良くない?」
「ええ。そうできるからと、私達のペースでさくさく進めてしまっては、貴方に良くないんです」
「私としては、早く着けるのであれば、それはそれで構いませんが」
「頭ではそう思うでしょうが……そうでもないもんですよ。適した時を与えるほうがいいもんです」
「ケイスケ、返事しなさいよっ!」
花売り娘が激怒とともに叫んできて、老人は「やれやれ」と言いつつ、顔を向けた。
「いま、お茶飲んでるとこだ」
「そんなこと見ればわかるわよ」
噛みつくように言った花売り娘に向けて、老人は片手を上げた。
「鍛錬の余韻が身体に馴染むのに時を要する。もう少し待てって」
「あっ、そっか。ケイスケ、あんた、それならそうと言いなさいよ。怒鳴って丸損だわ。お茶でも飲もうっと……」
イライラはあっさりと消えたらしく、花売り娘は浴槽の中にしゃがみこんだ。
ここからだと、首元から上しか見えなくなった。
花売り娘の乗っているのが浴槽だと知っているせいで、浴槽の上に頭だけ見える様子は、なんとも滑稽で笑える。
あの中で、花売り娘は、お茶の支度をしているのだろうか……? だが……
「つまらない質問かも知れませんが、あの浴槽の中にお茶の用意などしてありませんよね?」
「こちらの船の荷から、必要なものを取り寄せてるんですよ」
そんなことができるんですか?と、口から出そうになるところを、抑え込む。
彼らは、一般のひとであらず。
いちいち疑問を挟んでも仕方がないと納得すべきだろう。
カップが空になり、修練の疲れをいまになって感じたユウセイは、船にもたれた。
ゆるゆると意識が曖昧になり、身体がぐんと重さを増した気がした。
瞼がゆっくりと閉じてゆくのを感じながら、ユウセイは意識を手放した。
「すみません……あの……大丈夫ですか?」
ゆらゆらと身体を揺すられ、ユウセイは薄く瞼を開いた。
いまの声……老人ではなかったような?
「ああ、起きましたか? こんなところでどうされました? ご気分でも悪いんですか?」
心配顔で、ユウセイの顔を覗き込んでいる者がいた。見知らぬ若い男だ。ユウセイの肩に手をかけている。
「う、ん……?」
眉を寄せ、相手の顔をもう一度確認し、それから周囲を確認する。
田舎道だ。田畑と小高い山で囲まれた風景。
ここはいったいどこだ?
船は? 老人は? 浴槽の中の花売り娘は?
「旅のひとですか?」
その問いかけに、ユウセイはなんと返事をするべきか考えた。
王子だなどと、正体を明かす選択はない。
もちろん、勇者だ冒険者だなどと名乗れるはずもない。
ユウセイは、「ええ。旅の途中で……」と、曖昧に答えた。
「やはりそうでしたか」
そんなことを口にし、笑みを浮かべる相手を、ユウセイは訝しく見つめた。
そうでしたかとは、どういう意味だ?
「私はサンジというものです。貴方は?」
「ユウです」
「目的地などはあるんですか?」
「いえ……ただ、あてどなく旅をしているので……ところでここは、どこなのですか?」
「やはり貴方のようだ」
サンジと名乗る若者は、こくこくと頷き、急にほっとしたような表情になった。
「ああ、すみません。こんなことを言って、驚きますよね。実は、私は貴方を探していたのですよ」
「私を探して?」
「占い師が、貴方のことを教えてくれたんです」
占い師?
なんだか、おかしなことになってきた。いや、昨日から、おかしなことばかりなのだが……
だいたい、一緒に船に乗っていた老人と花売り娘は、どこに行ってしまったのだ?
あの不思議な川は? 船は?
「旅の途中、休んでいるところを起こされて、突然現れた男にこんなことを言われたのでは、戸惑いますよね。ユウ殿、すみません」
「い、いや……」
昨日に比べれば、驚くほどのことでもないと言えるかもしれない。
突然こんなところに……飛ばされたのか、置き去りにされたのかわからないが……いて、見知らぬ男に話しかけられているだけなのだし……
それでも、占い師が何を言ったか知らないが、探しにきた相手がユウセイで合っているのかはわからないと思うのだが……
サンジはそう思い込んでしまったようだ。
ここはひとつ、人違いではないかと言っておくべきか……
「貴方のお探しの人物が、私とは限らないというか……もっと他も探してみた方が……」
「もう散々探したんです。ですが、貴方よりほかには見つけられなかった。ともかく一緒に来ていただけませんか? たとえ人違いであっても、歓待させていただきますよ」
この成り行きは、素直について行った方がいいのかもしれない。
花売り娘と老人は、勇者となって冒険に行かせるため、ユウセイを強引な手段であの不思議な空間に引っ張り込んだのだ。
ここに置き去りにされたのも、ワザとではないと思える。
そして、この若者に会ったのも、偶然ではない? たぶん。
「わかりました」
ユウセイは立ち上がり、サンジについてゆくため相手の出方を待った。
「あの……その荷物は、いいんですか?」
背後に目を配り、サンジが言う。
ユウセイはサンジの見つめている方に振り返り、顔をしかめた。
ユウセイのものとしか思えない荷物が転がっている。どうやら彼は、その荷物を枕にしてここで寝ていたらしい。
「寝起きで……まだ頭が働いていないらしい」
苦笑いし、荷物を取り上げる。
荷を肩に背負ったのを見て、サンジが歩き出した。ユウセイも後に続く。
「ずっと旅をなさっているんですか?」
サンジのその声には、羨望が込もっていた。
「まあ……旅は好きですからね」
ずっとではないが、旅は好きで、それなりにしてきた。常にトモキとテルマサが同行し、ひとりではなかったが……それに、徒歩というのも初めてだ。
愛馬の顔が頭に浮かび、ここにいないことが寂しくなった。
「そういう自由が許される立場というのは、羨ましいな」
自由が許される立場という言葉に、苦いものが込み上げてくる。
実際は、その自由がなくて困っているのだ。
一ヶ月しないうちに、結婚しなければならない立場だ。
それなりの好みの女性に出会えたとして、相手をほとんど知る暇もなく、妃として迎えなければならない。さらに、たとえユウセイが相手を望んでも、相手が彼を望まない場合だってある。
相手の意志を無視して、無理やりに結婚してしまったら、この先の人生は、考えたくもないほど悲惨なものになってしまう。
せめて、彼を愛してくれているとわかる女性を娶るべきか……
「いかがなされました?」
肩を並べて歩いているサンジが聞いてきて、彼は自分が盛大に重いため息をついたことに気づいた。
「いや……この自由ももうすぐ終わるかと思ったら……」
「もうすぐ終わる? ということは……旅をおやめになるんですか? 何か理由が?」
ユウセイは問いに答えずに、苦笑いだけして首を振った。
「そうか……望むまま旅をなさるものと思いましたが……そうではないのですね」
望むまま……旅を……
そうできたら、どんなにいいだろう。
残念ながら、彼の未来には暗雲が垂れ込めている。
「ところで、ここはどこなのですか?」
不信感を与えないように、「もちろん、だいたいはわかるんですが……」と付け加える。
「ここがクラモト領なのはご存知でしょうね。この丘を下ったところが領地の中心地です」
なんと、ここはクラモト領だったとは……とんでもなく遠方に来てしまったようだ。
クラモト領は豊かな領地だが、城のある国の中心からは隔たった辺鄙な地で、ユウセイは来たことがなかった。
領主も、城を訪れるようなことはなかったはずだ。少なくとも、ユウセイは会ったことがない。
なだらかな下り坂に入り、前方が開けた。城と、城を囲う都が見渡せる。
「見事な風景だ。美しい」
「のどかさが自慢ですからね。収入源は、鉱物と花と作物」
こげ茶の煉瓦で家が統一されている町並は、とても緑が多い。
「貴方がこれまで旅をして回った町と比べて、どうです?」
「うーん。美しいと思う町は、それぞれ特徴があって、美しさが違う」
「そうか……そう聞くと、なおさら行ってみたくなる」
「行かれないわけでも?」
「忙しくてね……まとまった時間を得られないのですよ」
「仕事で?」
「ええ。そういうことです」
話している間にも、坂道を下り、町に近づく。
町に入ったユウセイは、いまさらほっとした気分になった。
町の人たちの姿を見られたことで、おかしな空間から出て現実に戻れた実感を、ようやく得られた。
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