笑顔に誘われて…
第26話 深まる想い


「由香、ほんとにすき焼きでよかったかしらね?」

白菜を切りながら母が不安そうに言う。
その問いは吉倉に対してのものと気づき、困った由香は首を傾げた。

「い、いいと思うよ」

「曖昧ねぇ」

母ときたら、責めるように言う。

「だ、だって、すき焼きが好きかとは、聞いたことないし……」

なんでも美味しそうに食べていたから、すき焼きが嫌いとは思えない。

「お母さん、そう心配しなくても、お刺身の盛り合わせもあるんだし……。だいたい、男性で、すき焼きが嫌いなんてひと、わたしは会ったことないわよ」

焼き豆腐をパックから取り出している早紀が、笑いながら母に言う。

狭いキッチンだが、三人とも慣れた場所。役割分担も自然にできて、スムーズに夕食の準備は進んでいる。

姉の退院祝いなのだし、姉には休んでいればいいと言ったのだが、一緒にやると加わったのだ。

そんな姉の態度を、母も由香も喜ばしく思っている。
もちろん、いま、真央と遊んでいる父も同じ気持ちだろう。

いまの姉は、入院前とは明らかに違う。
何か、重いものがふっきれたかのようだ。

もちろん、安心してしまっていいなんてことはないだろうが……

「それは、早紀、あんたがってことでしょうよ。世の中にはごまんと男の人が存在するのよ。中には匂いを嗅ぐのも嫌だってひとも、いるかもしれないじゃないの」

そこまで捲し立てるように言った母は、いったん白菜を切るのをやめて娘ふたりに振り返り、包丁を振りながらさらに力説する。

「嫌いだった場合、さあどうぞともてなされて、いや、僕はすき焼きは嫌いなんです。って、あの佳樹さんが言うと思う? ほら、言わないでしょ?」

自主自演、さらに自己完結し、なぜか母はそこで、どうよとばかりに胸を張る。

反論があるなら言ってみろということらしい。

由香は早紀と目を合わせた。
すると早紀が、自分が行くわとでもいうように軽く頷いてみせ、母に向く。

「お母さんさあ、それって可能性の話じゃないの。確率的にみて、嫌いなひとは少ないのよ」

「それって、可能性があるって言ってるんじゃないのよ」

「もおっ、だから、低いって言ってるの。それも、こんのくらい低いわよ」

姉ときたら、親指と人差し指をくっつきそうなほどくっつけて、母の目の前に突き出して反撃する。

母は、その手を思い切り叩いて払う。

「だからそれは安心できないってことでしょう?」

「痛いじゃないっ!」

「まあまあ」

激しくやり合う母と姉の間に、由香は慌てて割って入った。

「嫌いだったら、しょうがないじゃない」

「はあっ!」

なだめようと口にしたのに、ふたりは声を合わせて由香に険悪な顔を向ける。

「そ、そしたら。あの、そうだ。これから佳樹さんに電話で、好きかどうか聞いて……」

「馬鹿言いなさい!」

「そうよ。由香ってば何言ってんの。すでに用意しちゃってるってのに」

「だいたい、そろそろいらっしゃる頃なのよ。六時まで十分しかないじゃないの!」

ふたりから罵声を浴び、由香はむっとした。

「なんでわたしが怒られなきゃならないの? いまさらなのはわかってるのに、お母さんとお姉ちゃんが、意味もない口論を始めたんじゃない」

「だからって、電話で聞くなんて、ありえないでしょ?」

「そうよ。いまさらなのに」

何を考えてんのこの子は? みたいな冷静な目をふたりから向けられ、由香のこめかみがプチンと切れた。

由香はふくれっ面で、ポケットから携帯を取り出し、吉倉にかける真似をした。

「あ、あんた、まさか」

「ち、ちょっと、やめなさい」

携帯に手を伸ばしてくるふたりを交わし、由香はキッチンから走り出た。

「あっ、もしもし。佳樹さん」

「も、もおっ、由香」

「あんた、やめなさいって」

携帯を耳に当ててそれらしく話しながら、玄関へと逃げる。

玄関の前に、父と真央がいた。ふたりとも、いったいなんの騒ぎかと驚いて見ている。

由香はふたりに笑いかけ、母と姉に向いて、「べーっ」と舌を出してやった。

「まあっ」

母がそう言ったとき、玄関ドアが開く音がし、由香は反射的に振り返った。

「あ、あら」

「あ……」

母の慌てた声、そして姉の呟き……舌を出していた由香は、一秒ほどそのまま固まった。

「どうも。退院祝いに、お呼びいただきまして……」

「おおう、我が家は騒がしいのが多くてな。さあ、佳樹君上がってくれ」

父の歓迎の言葉を聞き、母も姉もすぐさま吉倉を歓待しはじめた。

もちろん由香だって、すぐさま我に返り、舌もひっこめた。が、顔はやけどしそうなほど熱くなるわで、眩暈がするほど恥ずかしかった。


すき焼きを巡っての喧嘩は、まるで無意味だったということが、その三十分後にはっきりとした。

とても美味しそうに食べている吉倉を見て、女三人は、彼に隠れて苦笑することになった。

「ねぇ、佳樹さん」

食事の中盤あたりで、姉が吉倉に話しかけた。

吉倉は「はい」と気持ちよく返事をしたが、由香は、姉は何を言い出すつもりかとハラハラした。

「お仕事は、何をされているの?」

「インテリアプランナーです」

吉倉が口にしたが、由香はそれがどんな仕事なのか、ぴんとこなかった。
質問した姉も、両親も同じだったらしく、戸惑い顔だ。

そんなみんなの反応を見て、吉倉が苦笑を浮べる。

「ポピュラーな職種ではありませんから、理解しづらいですよね。インテリア設計士と言った方が、わかっていただけるでしょうか?」

「インテリア関係の仕事なわけかい?」

「ええ」

それから食事が終わるころまで、吉倉の仕事の話で盛り上がった。

彼は小規模ながら、友人とふたりで投資して興した事務所を経営しているらしい。

クリスマスのパーティは、そういった関係の集まりだったということなのだろう。





「よちち、まーしゃん、よちよちすーのね。はいっ」

すでに眠たくなってきたらしい真央が、お気に入りのネコのぬいぐるみを、吉倉の膝の上に、ぽいっと乗せた。

「真央、もう眠たいんでしょ? ほら、ママのところにいらっしゃい」

「やん!」

早紀が手を伸ばすが、真央はその手を振り切り、吉倉の膝に両手でぎゅっとしがみつく。

「もおっ、真央ったら」

まるで言うことを聞こうとしない娘に、姉はお手上げの様子でブツブツ言う。

吉倉の隣に座っている由香は我慢できずに笑ってしまい、姉に睨まれた。

夕食を終え、女三人して片づけをしていたときから、真央は吉倉を相手にずっと遊んでいる。

こういうときの真央の遊び相手は父だったから、その役目を奪われた父は、かなり複雑な心境のようだ。

先ほどまで、真央はもう片方の腕に、うたぶんと名付けた、おでぶなウサギのぬいぐるみを抱えていたのだが、いまやうたぶんは床に放置状態だ。

やはり、長らくともにいるネコのまーしゃんのほうに愛着があるらしい。

娘につれなくされてふてくされた早紀は、立ち上がってうたぶんを取り上げる。そして、うたぶんの顔をまじまじと見つめる。

「このぬいぐるみ、真央のお気に入りになったのはいいけど、大きすぎて抱えるの大変そうだわね」

「そいつ、かなりなぶさいくぶりだが……由香、そんなのが売れるのかい?」

父ときたら、姉の抱えたうたぶんをまじまじと見て、ひどく心配そうに聞く。

「確かに正統派な可愛いって感じじゃないけど……新作で、人気出そうなのよ。わたしは、このへちゃむくれっぷりが可愛いと思うんだけど……」

「作ったのはあんただもんね。生みの親のあんたが可愛いいと思わないで、誰が思うのよ」

笑いながら母が言う。

「私も可愛いと思いますよ。……私もひとつ欲しいな」

ネコのぬいぐるみを、真央の求めに従って動かしながら吉倉が言う。

「ま、まさか、佳樹さん、あなた、ご自分の部屋にこれを飾るつもり?」

信じられないと言うように早紀から聞かれた吉倉は、苦笑しながら頷く。

「ええ。部屋の空間が、とてもあたたかくなりそうです」

吉倉の表現に、由香は喜びが湧いた。

彼はぬいぐるみのもつ良さを、よくわかっている。

「由香」

うたぶんを見つめていた吉倉が呼びかけてきて、悦びに浸っていた由香は「は、はい」と慌てて答えた。

「それって、手のひらくらいの小さなものも作るのかな?」

そんな質問をしながら、吉倉は自分の膝にもたれかかっている真央が倒れないように支えている。

真央はかなりの睡魔に襲われているようで、ネコのまーしゃんを胸に抱き締め、背中を吉倉の膝に当てて、右に左にゆらゆら身体を動かしているのだ。

ぶつぶつと、なにやら歌っているが、すでに半分瞼は閉じているし、いまにも寝てしまいそうだ。

「サイズは色々作ります。手のひらサイズのであれば、薄くてやわらかい生地で作ると、いい感じになるかも」

「うん。飾り棚にちょこんと載せると良さそうだ」

「あらあら、あなたたちふたりが夫婦になったら、部屋中ぬいぐるみだらけになるんじゃないの」

愉快そうに笑っている母は、何気なく口にしたのだろうが、由香は夫婦と言われてぎょっとした。

「ねぇ、結婚するの?」

母の言葉に触発されたか、早紀のさらに大胆な問いかけに、由香は目を剥いてひっくり返りそうになった。

「お、お姉ちゃん」

姉に叫んだ由香の肩に、吉倉の手が添えられ、彼女はどきりとして振り返った。

「まだプロポーズをしていないんです。由香さんに逃げられたりしないように、ゆっくり進めようかと……」

「よ、佳樹さん」

「その意志があるのね?」

姉ときたら、厳しい眼差しで、吉倉に強く問いかける。

「もちろんです」

吉倉ははっきりと答えたが、これはみんながふたりは付き合っているものと思い込んでいるから、話を合わせてくれているだけ。

吉倉に申し訳なくて、目を合わせられない

「そう。由香、このひとならいいんじゃないの。あなたのこと、裏切ったりしそうにないわ」

「お、お姉ちゃん」

「と、ところで、佳樹さんってお幾つなの?」

母が慌てたように話題を変えた。
母は、由香と吉倉に向けて聞いている。

姉の言葉に顔をしかめていた由香は、母と目を合わせて焦り、さっと吉倉に目を向けた。

吉倉の年齢は、由香だって聞いていない。
問われても答えようがないのだから、吉倉に答えてもらうしかない……のだが……

彼が何歳なのか……年齢をはっきり聞くことを避けていた自分にいまになって気づく。

由香と目を合わせている吉倉のほうも、動揺したように瞳を揺らしている。

彼は微かに眉を寄せ、それから両親と早紀に向いた。

「二十七です」

耳に入ってきた言葉に、由香は胸の辺りがすーっと冷えた。

み、三つも……年下なの?

もしかしたら年上では? そうでなくても同い年かも?
そう思いたかったのに……

そうであればよかったのに……

「あ、あら……由香より年下なの?」

母の言葉に、由香は頭をガンと殴られたような衝撃を受けた。そして後悔が湧き上がった。

前もって、吉倉に自分の年齢をはっきり伝えておけばよかった。
吉倉は由香のことを自分より年上、それも三つも年上だとは思っていなかったかも……

「はい」

驚いたことに、吉倉が迷いなく頷く。

「い、いいの? この子が三つも年上で」

困惑したような母の言葉が、胸にぐさりと突き刺さる。

「年下では、頼りないでしょうか?」

困ったように吉倉が口にし、由香は胸がどきんとした。

「いや、そんなことはない」

即座に答えたのは、ここまでずっと聞き役に徹していた父だった。

「君はしっかりした青年だ。君にこの子を託せることを、私は嬉しいと思うよ」

吉倉は父に向けて、ありがたそうに頷いた。

「驚いちゃったけど……そうよね。歳なんて関係ないわね」

「佳樹さん」

ほっとしたように言う母に厳めしい目を向けていた姉が、改まったように吉倉に呼びかけた。

「はい」

「いいこと。妹を裏切ったりしたら許さないわよ」

「お、お姉……」

「由香」

吉倉にたいしてあまりに失礼な姉の態度に、口を挟もうとしたが、吉倉から止められた。

吉倉は姉をじっと見つめ、口を開く。

「愛を、疑わないでほしいと思います。疑われることほど、辛いことはありません」

姉に向けられた、吉倉の訴えるような言葉に、由香は息を止めた。

早紀も目を見張って吉倉を見つめている。

由香は吉倉の腕をぎゅっと掴んでいた。
吉倉が由香に振り返る。

姉のために、姉を思って口にされた言葉だ。そして靖章を思って……

「疑いません。絶対に」

由香の言葉を聞き、吉倉は心底嬉しそうに微笑んだ。

「な……なんなの? なんなのよっ!」

姉の叫びに驚いて振り向くと、ぶるぶると身体を震わせながら姉が立ち上がろうとしている。

「早紀!」

「さ、早紀?」

父と母の呼びかけに姉はぎゅっと目を瞑り、居間から走り出て行った。

パタンとドアの閉まる音が響き、姉が自室にこもったのがわかった。

シーンと静まり返った部屋の中、「ママ?」と真央が口にする。
吉倉は真央を抱き上げて、胸に抱きしめた。

「すみません、真央さん。貴方のお母さんを……傷つけてしまったようだ」

吉倉の言葉に、由香は胸が詰まった。
そして吉倉というひとの心の深さをまた感じ、彼に向ける想いを深くした。

確かに姉は傷ついたかも知れない。けれど、吉倉の口にしたように、姉はむやみに疑わず、信じることを学ばなければならないのだ。

しあわせになるために……





   

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