笑顔に誘われて…
第32話 デリカシーの有無



「高知さ〜ん。いらっしゃ〜い」

玄関のドアが開いた途端、はしゃいだ声と一緒に、綾美が顔を出した。

「綾美ちゃん、大丈夫なの?」

ここにくるまで、気にかかってならなかった綾美の怪我の具合を確かめる。

「ぜんぜん大丈夫なんですよ。まあ、痛いですけど」

「綾美ちゃん、痛いのは、大丈夫とは言わないわ」

由香は苦笑しつつ、たしなめるように言う。

「その子、ちゃんと役に立ったみたいですね」

綾美は、由香の抱えているでぶうさちゃんを見つめて口にし、いたずらっぽく笑う。

「ええ。びっくりしたわ」

運転席の窓のところに、でぶうさちゃんが、にゅっと現れたときのことを思い出してしまい、由香は笑いを堪えた。

「綾美、こんなところで話してないで、まずはあがっていただいたほうが、いいんじゃないか?」

由香の後ろに立っていた吉倉が、妹に声をかける。

「うん。わかってるよぉ。さあ高知さん、あがって」

「それじゃ、お邪魔します」

吉倉家は、築数年という感じの真新しい家だった。

二階建てで、しゃれた外観に違わず、室内も垢抜けたデザインだ。

「お兄ちゃん、ありがとね」

靴を脱いであがらせてもらっていると、綾美が兄に礼を言う。

由香は吉倉に振り返った。

吉倉は妹を見つめて眉を上げると、すっと前に出てきて、靴を脱ぎ始めた。

「えっ。お兄ちゃん、あがるの?」

戸惑ったように綾美から言われ、吉倉は苦笑いを浮かべる。

「実家に戻ってきたんだ。家に上がったって悪くないだろう。役目を終えたら、玄関先で追い返すつもりか?」

吉倉は、妹に向けて呆れたように文句を言う。綾美は焦ったように胸の前で両手を振る。

「そ、そんなつもりはないよぉ。だってお兄ちゃん、すぐに帰っちゃうんだろうって思ったんだもん」

「高知さんを家に招いたのに、お前は足を痛めてるし、母さんもいないんじゃ、もてなしもできないだろう?」

「ま、まあ……ね」

「まさか、お前……」

どうしたのか、吉倉はそう口にし、妹を凝視する。

「そ、そんな……ち、違うよお。高知さんに、お茶入れさせようとか……そんなこと……」

「考えてたな」

吉倉がきっぱりと断言し、綾美は顔を引きつらせる。

兄妹らしいやりとりに、由香は我慢できずに吹き出した。

吉倉と綾美が、同時に由香に振り返る。

「ご、ごめんなさい」

謝ると、吉倉は憮然とし、妹を睨む。

「だ、だってぇ」

「だってじゃない」

「だって……片足けんけんしてたんじゃ、お茶をなんとか淹れたとしても、運べないもん」

「それで、お客様に運んでもらおうというのか?」

「あの、わたし、お茶くらい運びますし」

「いや。お客である貴女に、そんなことはさせられませんよ。私がいるんですから」

「お、お兄ちゃん。まさか、お兄ちゃんがお茶淹れるつもり?」

信じられないと言うように、綾美は兄を見つめて目を見張る。

そんな目を向けられた吉倉は、しかめっ面で口を開く。

「失礼なやつだな。お茶くらい淹れられる。もういいから、綾美、お前はさっさとソファに座ってろ」

「あの、吉倉さん、わたしもお手伝いしましょうか?」

「貴女はこいつに手を貸して、居間に連れて行ってやってもらえますか。それは、私が預かりますよ」

「あっ、はい」

差し出された吉倉の手に、由香は抱えていたでぶうさちゃんを渡した。

吉倉はでぶうさちゃんを手に、先に家の奥へと歩いていく。

残された由香は、側にいる綾美と目を合わせた。

「綾美ちゃん。それじゃ、手を」

「す、すみません。なんか、こんなつもりじゃなかったんですけど。ほんと、ドジで」

しょんぼりと肩を落としている綾美に、由香は苦笑した。

「そんなふうに、気落ちしないで。さあ、手を貸すわ」

「はい。ありがとうございます。でも、高知さんに遊びにきてもらえて嬉しいです」

綾美は嬉しそうに由香に手を出してきた。その手を取り、綾美に手を貸して家の奥に向かった。

居間に入った由香は、物珍しさから広い室内を眺めまわしてしまう。

解放的で独創的な造りの部屋だ。なんともしゃれている。

「はーっ。やれやれですよ」

由香の手を借りて、ソファにゆっくりと腰を下ろした綾美は、疲れたように言いながら、由香から手を離す。

「高知さんも座ってください」

「ええ」

返事をした由香は、カチャカチゃと音のするほうに首を回しながら、綾美の隣に座り込んだ。

キッチンのところに吉倉がいる。そして、吉倉の抱えて行ったでぶうさちゃんは、彼が置いたのだろう、ソファにちょこんと座っている。

「痛むの?」

でぶうさちゃんから視線を綾美に移し、由香は、自分の足を撫でている綾美に問いかけた。

「刺激を与えなかったら、ぜんぜん大丈夫です」

「災難だったわね」

「高知さんにも、迷惑かけちゃって、ごめんなさい」

申し訳なさそうに、ぺこりと頭を下げてくる。

「わたしはいいのよ。ぜんぜん迷惑とか感じてないし」

由香がそう言ったところで、綾美がぐっと顔を寄せてきた。

「愛想なしのお兄ちゃんで、高知さん、すみません」

「えっ?」

なぜ謝ったりするのか意味がわからず、由香は首を傾げた。

「お兄ちゃん、誰にでも愛想なしなんで」

愛想なし……?
まあ、確かに、吉倉は愛想がいいとはいえないひとだけど……

「女のひと、苦手みたいなんですよね。女のひとには、ほんと誰であれ、そっけないんですよ」

キッチンにいる吉倉に聞こえないように、綾美は耳元でこそこそしゃべる。

「そうなの」

由香の返事に、綾美が頷く。

「あんななのに、兄貴って、不思議とモテるんですよね。そっけないところがいいとかって、わたしの友達とかも」

由香は返事に困り、「そ、そう」と相槌を打った。

やはりモテるのか。確かに、素敵なひとだものね。それに、やさしいし……

「それにしても、高知さんとランチ食べられると思ったのに……」

「お洒落なレストランだって言ってたわね」

女の子の喜ぶ感じのお料理だとも言っていた。
行けなかったのは、確かにちょっと残念だ。

「はい。友達と何度か行ったことがあるんです。そうそう、兄貴とも行ったんですよ」

「そうなの」

「ええ。でもね、こんなレストラン、自分の柄じゃないって、最初から最後まで嫌がってましたよ」

「あら」

思わずくすっと笑ったものの、イブの日に吉倉が連れて行ってくれたレストランのことを思い出し、うん?と首を捻る。

あのレストランも、すごく洒落ていたけど……

そういえば……彼は、綾美ちゃんが気に入っているって言っていたような。
てことは、やっぱり、あのレストランってこと?

「嫌がってたの?」

「えっ? ああ、はい。それはもう、こんなところ、もう二度と来ないぞって……」

二度と来ないと言っていたレストランに……彼は由香を連れて行ったのか?

「高知さんとランチの約束して、すぐに予約入れてみたら、たまたまキャンセルが出たところだって、超ラッキーと思って、はしゃいじゃったのが不味かったんですよね。足を踏み外すなんて……ほんと、わたしって馬鹿」

「わざわざ予約を入れてくれたの?」

「もちろんですよ。予約が取れなかったら、行っても無駄足ですもん。当日で予約が取れたのは、すっごいラッキーだったんですよ。だから、もお、なおさら残念でなんないです」

「そ、そうなの」

予約がなかなか取れないレストランというのであれば、吉倉が連れて行ってくれたレストランとは違う店なのだろうか?

あのとき、イブの日だったのに、予約なしで入って、テーブルに空きがあったのは、まさに超ラッキーといえたのではないだろうか?

やはり、たまたまキャンセルが出たとか……そういうことだったのだろう。

カチャカチゃと音がし、顔を上げてみると、吉倉がカップ載せたトレーを運んできていた。

「お待たせ」

テーブルの上にトレーを置き、カップを由香の前に置く。

紅茶のいい香りだ。

「ありがとうございます」

「いや、どうぞ」

「お兄ちゃん、返事が愛想なしすぎるし、このカップ、ティーカップじゃなくて、マグカップなんだけど」

綾美ときたら、せっかく吉倉が淹れてくれたのに、そんな指摘をする。

「あ、綾美ちゃん。別にいいわよ」

「カップ如きが、そんなに重要か?」

「いえ、重要ではありません。これで充分です」

吉倉は、もちろん妹に問いかけたのだが、由香は率先して答えた。

「ですよね」

「もおっ、お兄ちゃん、デリカシーなさすぎ。そんなだから、彼女のひとりもできないんだよ。もういい年なのに」

「お前に言われたくないな」

「どうしてよ」

「お前に、彼氏がいたことあったか?」

「な、なによおっ。もおっ、ほんとデリカシーなさすぎ!」

頬を膨らませてぷんぷんしている綾美を見て、吉倉が派手に吹き出した。

綾美には悪いが、由香も笑いが堪えきれずに、吹き出してしまう。

「も、もおっ、なんで高知さんまで」

「ご、ごめんなさい。でも、わたしも同じだから」

「同じって?」

「同じ?」

由香の言葉に対して、綾美と吉倉は声を揃えた。

「だ、だから……その……彼氏がって……話……」

自分から口にしてしまったのに、なんとも恥ずかしく、顔が赤らむ。

考えてみたら、自分はこのふたりとは違う。

すでに三十なのだ。三十年、彼氏がいたことがないなんて……わざわざ口にすることではなかった。

「ほ、ほんとに。高知さん、ほんとに男のひとと付き合った経験ないんですか?」

「ま、まあ……」

そんなふうに、驚きとともに確認を取られては、口ごもるしかない。

「びっくりですよ。だって、高知さんって、そんじょそこらにはいないくらいの、知的な美女なのに」

び、美女?

「あ、綾美ちゃん。からかわないで」

「なあ、ふたりとも」

顔を真っ赤にして、綾美とやりあっていたら、冷静な声が横合いから聞こえ、由香は吉倉に振り返った。

「な、なに? お兄ちゃん」

「昼食だが、寿司でよかったか?」

「ちゅ、昼食?」

綾美は面食らったように兄に問い返す。

「まだ食べていないんだろ。高知さんも」

吉倉から顔を向けられ、由香は「はい」頷いた。

「食べてないけど、お兄ちゃん、出前、頼んでくれたの?」

「ああ。お前のぶんは、ちゃんとサビ抜きにしてやったぞ。デリカシーはないが、気は利くだろ?」

吉倉ときたら、妹に当て付けるように言うと、マグカップ口元にもってゆく。

由香はくすくす笑いながら、吉倉に向けて感謝のこもった眼差しを向けた。

吉倉は、由香が困っているのを察して話をそらしてくれたのに違いない。

デリカシーにかけているなんてことはない。彼は配慮のできる、心やさしい男性だ。





   

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