笑顔に誘われて…
第35話 追及回避



「なんとか、機嫌を直してもらえないかな?」

並んで歩いている吉倉が、困ったように言う。

彼に翻弄され、憤りがまだ消えない由香は、憮然として無視した。

「高知さん?」

今度は、改まった声で呼びかけてきた。それも無視する。

吉倉の車に歩み寄り、由香は立ち止まった。

彼はそんな由香の隣に立ったが、何も言わずに黙り込んでいる。

車の鍵を開けてもらえるまで、由香としては待っているしかない。

どうやら吉倉は、由香が何か言うか、何か行動を起こすかするのを待っているらしい。

五秒、十秒、十五秒と時が過ぎる。

こうなったら、我慢比べだ。こちらから折れるなんて、絶対にしない。

「案外頑固だな……」

吉倉ときたら、ぼそぼそと独り言を言う。いささかカチンときたが、それも無視する。

「……謝ればいいのか? だが、何に対して?」

こ、このひとってば……

からかわれて怒ってるに、決まっているのに……

からかったでしょ?

危うく怒鳴りつけそうになったが、ぐっと踏ん張って堪える。

もう少し反省して……あっ、けど、このひと……そもそもわたしが怒っている理由に気づいていないんじゃ?

それだと、反省とかいう話じゃないし……

「ゆーか?」

唐突な馴れ馴れしい呼びかけに、由香は思わずびくんとする。

ご機嫌を取るような言い回しも驚愕もんだったが、なんと吉倉、由香の耳元で囁いたのだ。

性懲りもなく、またからかってくるなんて!

由香は、キッと吉倉を睨んだ。

「あっ、反応した」

嬉しそうに言う。

どっと疲れた……

そのとき、吉倉の携帯に着信があった。

吉倉は携帯を取り出し、眉をひそめた。

「……ごめん、由香。……ちょっと出る」

由香の肩を軽く叩きながら断りを言い、吉倉は携帯に出た。

な、な、な……まるで恋人にするように……

動揺した由香は、真っ赤になった。心臓もバクバクしてる。

なのに吉倉は、平然として電話の相手と話し始めた。

目眩がした。

このひと、実は、かなりの天然なの?

自分が何をしているか、わかっていないのか?

それとも、このひと、誰にでもこんな風……?

由香にしているのと同じようなことを、他の女性にもしている吉倉を想像し、胸がずくんと疼く。

い、いやだ……こんな感情、味わいたくない。

恋愛感情への恐れが強烈に湧き上がり、由香は無意識に吉倉に背を向けて数歩離れた。

「高……」

由香に呼びかけようとして、吉倉は口をつぐみ、「いや、なんでもない」と電話の相手に答えた。

電話をかけてきたひとは女性なのかもしれない。吉倉と親しい女性……

わたしなんて、吉倉さんと会って、ほんの数日……

熱い塊がぐっと胸に込み上げてきて、由香は唇を噛んだ。

なのに……なのに、こんなにも好意を抱いてしまってて……

頭の中で警報が鳴る。

危険だ!

忘れてはいけない、彼は自分より三つも年下だということ……そして、やさしさから由香たちの力になってくれようとしているだけだということを……

「悪い、忘れてたわけじゃ……緊急事態が起こったんだ。……その、綾美のやつが足を捻挫した。……ああ、すぐには無理だが、三十分くらいしたら帰れると思う」

帰る? それは自分の家にということだろう。つまり、電話の相手は、いま、吉倉の家に来ているということなのだろうか?

由香を送るから、三十分という時間がかかるのだ。自分のせいで、誰かが玄関先で三十分も待たされるのでは申し訳がない。

吉倉に振り返り、由香は口を開いたが、さっと近づいた吉倉に口を塞がれた。もちろん彼女は驚いた。

こ、これって……電話の相手に、わたしの声を聞かせたくないということよね?

つまり、相手はやっぱり女性……しかも、おかしな誤解をさせたくない相手……

吉倉さん、そういう相手がいたんだ。彼女はいないと言っていたけど……綾美ちゃんが知らなかっただけで……

胸がスーッと冷えた。

「適当にくつろいで待っていてくれ。……ああ、何でも……馬鹿、酒以外だ」

冗談めかしたように相手を叱る。

打ち解けた相手……しかも、そのひとは、吉倉の家の合い鍵まで持っているらしい。

ぐるぐる憶測している自分に気づき、由香は顔を歪めた。

ああ、嫌だ……わたしってば、なにを……

こんなの最低だ。

自己嫌悪に駆られ、なんとか吉倉の声を意識から排除しようと努めたが、耳に飛び込んでくるものは、拒みようがない。

こうなったら、考えるのをやめよう。

気にしない、気にしない、もう気にしない。

「ああ、病院は嫌いだからな。子どもだろ。……えっ……来る? ここに? これからか?」

驚いたような声を上げていた吉倉が、「あっ、ちょっと待て!」と慌てて叫び、「ちっ」と彼らしくない舌打ちをした。

「由香」

通話を終えた吉倉が、むっとしたように呼びかけてきた。

由香はびっくりして、吉倉を見る。

そんな由香の反応に、吉倉は慌てたようだった。

「あっ、ごめん。……高知さん、送ります。早く車に乗って」

焦ったように急かされて、物凄く嫌な気分になった。

吉倉の態度ときたら、邪魔者を早く片づけようとしているとしか思えない。

「けっこうです!」

由香はむっとして叫んだ。

彼女の返事に、吉倉が驚いたように目を見開く。

「えっ?」

「お知り合いの方が、ここにいらっしゃるのでしょう? わたしは自分で帰れます。では、これで失礼します」

由香は頭を下げ、踵を返した。

一歩二歩と歩いたところで、手首を掴まれた。

「急にどうしたんだ?」

どうしただ? こ、この朴念仁!

「離して!」

手を大きく振って叫ぶ。

「わけがわからないんだが」

朴念仁のうえに、デリカシーもない。こんなひとだとは思わなかった。

「貴方に送っていただかなくても帰れるんですから、お忙しいのに送ってもらう必要などありませんと言っているんです。どこがわけがわからないとおっしゃるんですか?」

「なぜ怒ってる?」

その問いかけに、怒りが爆発した。

由香は、握られている手首を乱暴に振り回し、彼の手を振り払おうとしたが、がっちり掴まれていて振り払えない。

「もおっ。どうして離してくれないの?」

「怒っている理由を教えてほしい」

「怒っていません」

「実際怒りながら、怒っていないと否定しても、意味がないと思うが?」

「もおおっ、帰れないじゃありませんか。離してください!」

「僕の納得のいく理由を聞かない限り、この手は絶対に離さないぞ」

「い、意味がわかりません」

かたくなな吉倉に困惑し、由香は情けない声で言った。

「あ、あの。どうしたの?」

戸惑った声が離れた場所から聞こえ、由香はハッとした。

吉倉と同時に吉倉家に振り返る。

そこには窓を開けて、こちらを見つめている綾美がいた。

「さ、最悪……」

由香は顔に手を当てて呟いた。ここにきても、吉倉は由香の手首を握り締めたままだ。

「気にするな、綾美。痴話喧嘩してるだけだ」

「ち、痴話……?」

由香は吉倉を睨みつけた。

戸惑っている綾実を、さらに戸惑わせてどうするのだ。

「な、なんでそんな、誤解に誤解を重ねるような言動をするんですか?」

由香の問いに、吉倉が黙り込んだ。彼は瞳を揺らし、困った顔で口を開く。

「……」

吉倉が何か言ったが、声が小さすぎて聞き取れなかった。

「はい?」

「とにかく車に乗ってくれないか。どうしても送りたい。送らせてほしい」

「お兄ちゃん。高知さんに、何してるのよ!」

戸惑っていた綾美も、戸惑いから抜け出せたらしい。兄を激しく叱ってきた。

「綾美ちゃん、大丈夫だから。ふざけてただけだから」

「ふざけて? お兄ちゃんと高知さんが?」

「初詣行きましょうね。また電話するわ」

由香は綾美に明るく声をかけ、吉倉の車に乗り込んだ。吉倉の手がようやく離れた。

「お兄ちゃん、ちゃんとしてよ」

「わかった」

綾実の言葉に手を上げて答え、吉倉は車に乗り込んできた。

「ちゃんとしろって……どういうの求められてるんだろうな?」

ぶつぶつと自問自答するように口にした吉倉は、すぐにエンジンをかけ、発進する前に由香に顔を向けてきた。

「わからないで、わかったって答えたんですか?」

まだ怒りが収まらない由香は、つっけんどんに問い質した。

「君は怒ってるし……」

吉倉はふてくされたように言う。

まるで、無実の罪を着せられていると言わんばかりだ。

「ここはひとつ、整理しよう」

車をスタートさせた吉倉は、運転しながら提案するように言う。

「そんなの、必要性を感じませんけど……」

「ほお、悪いが俺は感じるんですよ」

当て付けるような笑みを浮かべて言い返してくる。吉倉のほうも怒ったらしい。

「ビッグニュースが何か、僕が聞いた途端、君は怒った。聞いてはいけない理由があったんですか?」

「そんなことで、わたしは怒っていませんけど」

「だが、聞いた途端、君は僕の胸を突いてきたじゃないか」

「貴方が、わたしをからかったから。なのに、澄まして顔してビッグニュースはとかって聞いてくるから」

「からかった?」

吉倉は目をぱちくりさせて言う。

「からかったでしょう?」

「いや、そんな覚えはない。僕のどんな言動が、からかいと取られたのかな?」

「そんなの……言えません」

「覚えていないから? それとも口にしたくない?」

『どんな予定があろうと、貴女と会えるのであれば、キャンセルしますよ』という吉倉の言葉が頭にありありと蘇る。もちろん、そんなこと口にできない。

「あっ、そうだ。綾美に……」

突然吉倉が口にし、ブレーキを踏んでスピードがダウンする。

「どうしたんですか?」

「いえ、奴が来ることを綾美に伝えておくべきだったと……あいつに、ちょっと電話します」

そう言って、吉倉は路肩に車を止めた。

奴?

「綾美。……ああ、それについては気にするな。それより、清水が来るぞ」

清水?

「慌てるな。来ても出迎える必要はない、俺が戻るまで放っておけ」

何を言っているかはっきりわからないが、綾美がきゃんきゃん騒いでいるのはわかる。

それにしても、放っておけ? 自分の恋人なのに?

「失礼なんてことあるか。お前は足を捻挫して、動けないことは奴も承知してる。承知の上なんだから、ほっといても失礼じゃない。俺もなるべく急いで帰るから」

奴という単語に、由香は眉をひそめた。奴と聞くと、まるで相手は男性のように感じる。

綾美はまだ何か言っていたが、「黙って聞け!」と吉倉が一喝し、電話の向こうは静まり返ったようだった。

「あいつの行動は、単なる暇つぶしだ。俺を俺のところで待ってるのがつまらないから、お前の見舞いに行くことにしたんだ。そろそろ着くだろうが、無視しとけよ。いいか、いま家にはお前ひとりなんだからな、絶対に家に上げるなよ」

言うだけ言い、吉倉は携帯を切った。

「すみません。うるさくして……」

謝るものの、吉倉は疲れたようすでため息をつく。

「いえ……吉倉さん、戻ったほうがいいんじゃないですか?」

「ああ。いや、信頼できない相手ではないんですが……独身の男女がふたりきりになるのは、まずいんじゃないかと思えて」

男女?

つまり……清水というひとは……

そう考えたところで、ハッと気づいた。

清水という名前……すでに耳にしている。

それって綾美の好きなひとで……

くらりと眩暈がした。

いまの電話の相手は、男性だったんだ。

綾美があれほどに騒いでいた理由がわかった。

思いを寄せている相手がくるというのでは、慌てるだろう。

「それで……高知さん。……先ほどの話だが……何が君の気に障ったのか……」

「ビッグニュースですけど」

いまとなっては話を蒸し返したくない由香は、唐突に言った。

当然だろうが、吉倉が「うん?」と眉を寄せる。

「実は、でぶうさちゃん、あの子の特大サイズの注文が入ったんです」

「でぶうさ? ああ、あのぬいぐるみ?」

「はい。特大サイズの注文はあまりないので、大喜びした主任さんから電話をいただいたんです」

「特大ってどのくらいの大……いや、あの……怒っていたのは?」

「怒っていませんから」

由香は、気まずさを押さえ込んで平然と答えた。

内心で、吉倉に深〜く詫びる。

「えっ?」

「吉倉さん、早く帰らなければならないんでしょう? 急いだ方がいいんじゃないでしょうか?」

「あ、ああ」

由香の態度の変化に、吉倉は眉をひそめている。

我ながら現金だと思ったが、このことについて追及されたくない。

腑に落ちないらしいが、急ぐべきだと思ったのだろう、吉倉はようやく車を発進させた。





   

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