笑顔に誘われて…
第41話 信頼の確信



エレベーターに向って吉倉と肩を並べて歩く由香は、込み上げてくる気まずさのせいで、彼と顔が合わせられずにいた。

俯いたまま歩き、エレベーターの前に到着し、足を止める。

吉倉はずっと何も言わず、なぜ彼が黙り込んだままなのか、その理由がわからず気になってならない。

落ち着かずにいると、吉倉が「由香さん」と呼びかけてきた。

どこか潜められた声で、思わずどきりとしてしまう。

「は、はい」

もう俯いていられず、顔を上げて吉倉を見る。だが彼は、両親のマンションの玄関のほうに顔を向けていた。

「大丈夫ですよね?」

「えっ?」

振り返りざま言われたが、いったいなんのことかわからない。

大丈夫……って?

吉倉はまた玄関のほうを見て、気がかりそうに顔をしかめている。

「あの?」

「置いて来てしまって……」

「置いてって? ……あ、ああ、靖章さん?」

「ええ。実は、ここに来るのに、私がついていますからと約束してしまって……」

「ああ、そうだったんですか」

そういうことか。わたしときたら、自分の服装のことしか頭になくて……

「彼と一緒に家に上がらせていただこうと思っていたんですが、そのまま出る流れになってしまって……後ろ髪を引かれてしまってるんですよ」

困り顔で苦笑しながら吉倉は言う。

かなり気になっているようだ。
靖章との約束を守りたかったのだろう。

由香は、先ほどとは別の意味で気まずくなった。

冷静だったなら、そんな靖章の気持ちに気づけたかもしれないのに……

でも、あの場は、吉倉と由香を見送る流れで、靖章の気持ちを感じられていても、逆らいづらいものがあった。

結局、吉倉と同じで、後ろ髪を引かれつつも出てくることになってしまったに違いない。

「気持ちはわかりますけど、大丈夫ですよ。姉はもう、彼のことを信じるって決めましたし……あっ、そうでした。吉倉さん、昨夜は本当にありがとうございました」

昨夜のことをいまさら思い出し、由香は頭を下げた。

「私は、たいしたことはしていませんよ。靖章さんから電話をもらって……こちらに電話をしただけで……」

由香は口元に笑みを浮べて、首を横に振った。

「吉倉さんがいなかったら、こんなふうに解決していません。吉倉さんのおかげです、全部」

「困ったな。そんな風にお礼を言われると……嬉しいが、感謝をもらい過ぎてる気がして……」

「もらってください。まだまだ感謝し足りないくらいです」

吉倉が仕事関係で必要だというミニチュアのぬいぐるみは、もちろんこれから作らせてもらうつもりだが……。もっと何かお礼になるような……

「吉倉さんのお役に立てることがあるといいんですけど」

「その言葉は……本心?」

「えっ?」

吉倉の声が急に低くなり、その響きに真剣なものを感じ取った由香は、少々驚いて彼を見た。

吉倉は由香の心を覗き込むように、瞳を覗き込んでくる。

顔が赤らみそうになり、由香は目を泳がせて視線を逸らせた。

「も、もちろん本心です……けど」

「けど?」

思わずつけ加えた言葉尻を捉えられ、由香は焦った。

「ほ、本心です。なんでもさせていただきます」

あやふやさを吹き飛ばす様に、きっぱりと宣言する。

ちらりと吉倉を窺うと、視線が合った瞬間、何気なさそうに視線を逸らされた。

な、なんか、口の端に笑みを浮べていたような……?

「では、靖章さんには、次にお会いしたときに謝罪するとしよう」

心に折り合いがつけられたらしく、吉倉はそう言うと、エレベーターを呼ぶボタンを押した。

「それなら今日の午後に……姉から、午後に私のアパートで話ができないかって……吉倉さん、午後って、空いてます?」

なんだか勝手な事ばかり言っている気がして、おずおずと問いかける。

「空いてますよ。そうか、思ったより早く話ができるわけですね。だが、それだと午前中はどうします?」

吉倉がそう言ったところで、エレベーターの扉が開いた。

「アパートに送ることにしていましたが……」

エレベーターに乗り込みながら口にし、あとに続いた由香に振り返ると、さらに話し続ける。

「このままアパートに帰ったほうがいいのかな?」

吉倉は由香の全身を見つめて問いかけてくる。

おかげで由香は真っ赤になった。

アパートに送ってくれると吉倉が言ってくれて、そのために彼はここに来ただけなのに……

こんな洒落た格好をしてるなんて……恥ずかし過ぎる。場違いもいいところだ。

「こ、この服はですね。姉が気を回して……普段着みたいな服しか置いてなかったから……それで。わたしは、こんなお洒落な格好をする必要はないって言ったんですけど。アパートに送ってもらうだけなんですから……」

しどろもどろになんとか説明したものの、顔の赤みは増すばかりだ。

「顔が真っ赤だ」

「えっ?」

真っ赤になっていることなど、指摘されずともすでにわかっているし、わかっているから恥ずかしいと思っているのに……

「怒って……いるのかな?」

言い難そうに、また指摘?

しかも、矢はど真ん中にヒットだ。

もおっ!

「怒ってますっ!」

大声で言い返した由香は、ちょうど扉が開き、エレベーターから降りた。

吉倉に構わず玄関ホールの扉に向かう。

「そうか……さっさと誤解を解いてほしいですか?」

「はい?」

言われた意味がわからず、由香は扉の前で足を止め、すぐ後ろにいた吉倉を振り返った。

誤解を解くって……?

いや、それよりなぜ、吉倉はこんなにも申し訳なさそうな顔をしているのだ?

「貴女がそんなに嫌がっているとは思わなかった」

由香は目をぱちくりさせた。

「あのー、吉倉さん? なんの話か……わからないんですけど……」

「え?」

「いえ、ですから、誤解を解くとか、嫌がってるとか……」

そう言うと、吉倉は戸惑ったように黙り込んだ。

そのときちょうど、外から子ども連れの家族がやってきた。その家族と入れ替わるように、ふたりは外に出た。

「今日は特別冷え込んでいます。車に乗り込むまで身体が冷えてしまう。コートを羽織ったほうがいい」

「あっ、はい」

手にしていた黒いコートを吉倉が羽織るのを見て、由香も白いコートを着込んだ。コートを見て、また羞恥が戻る。

「あの……由香さん。君が先ほど、私に怒っていると叫んだのは……?」

歩きながら吉倉が問いかけてきた。

答え難いけど、答えないわけにはゆかないだろう。

「それは……吉倉さんが、私の顔が真っ赤だって……わかっていることをわざわざ指摘されたから。……ですけど」

渋々説明すると、吉倉はきゅっと眉を上げた。

「顔が赤いと口にしたのが、悪かったんですか?」

君はそんなささいなことで怒ったのか? と、その顔は言っている。由香はカチンときた。

「なんだ……僕はてっきり」

「なんだ? なんだってなんですか?」

「い、いや……どうしてここで、火に油を注がれたみたいに、君は怒るのかな?」

そんなわざわざ聞かなくたってわかるだろうに……このトウヘンボク!

「なんだそんなことか、って言わんばかりだったじゃないですか!」

「ちょっと待った!」

吉倉は右手を上げて、強制的に由香を黙らせようとする。

「なっ!」

「とにかく、いまは車に乗り込もう。続きはそれからにしませんか? ここでは人の目もあるし……」

冷静に言われ、むっとしたが、周囲を見渡せばひとの姿がちらほらある。

ここで赤面したり、むっとしてしまったら負ける気がして、由香は心を落ち着け、真顔を保ちながら頷いた。

吉倉は、由香の背を軽く押すようにして歩き出した。

車に乗り込み、ハンドルを握った吉倉は、「走りながら、話を整理しましょう」と提案してきた。

そしてすぐにエンジンをかけ、車は走り出す。

「貴女の顔が真っ赤だと私が指摘した。すると貴女は、真っ赤だと指摘されて怒った」

「そうです。そしたら、吉倉さんが怒っているか?と聞くから、怒っていると正直に答えたんですよ」

「私が、貴女の頬が真っ赤だということを、わざわざ指摘した理由はわかりますか?」

「指摘した……り、理由?」

そんなものがあるのか?

「あの、理由って?」

「貴女の相談に乗るために都合がいいからと、私は貴女の家族に我々は恋人同士であると思わせた」

「え、ええ」

「ご家族は誤解なさったままだ。当然我々を恋人どうして扱う。貴女はそのことが腹立たしくて顔を真っ赤にしているのかなと思ったのですよ。それでつい、真っ赤だと……口から……」

「そ、そうじゃないですよ。そんなことで怒ったりしません。わたしは……」

「うん? 君は……?」

「だから、さっきも言ったように、この格好が……おしゃれすぎてて、恥ずかしかったんです。アパートに送ってもらうだけなのに……な、なんか……その……恥ずかしくて」

「私に会うから、おしゃれをしたと、私に思われるのが嫌だった?」

由香は、そう問いかけてきた吉倉を、瞬きして見つめ返した。

な、なんで、そんな沈んだ顔をするのだ?

「そ、それは……。ち、違いますよ! 恥ずかしいからで、嫌ということじゃないです」

「そう……ですか?」

「あ、あの、ところで綾美ちゃんは? どんな様子ですか?」

「ああ。順当に完治に向えばいいなと、そういったところかな」

「はい? それ、どういうことですか?」

「綾美の性格、ご存知でしょう? 少々落ち着きがない。しかも、昨日は……」

「昨日は?」

「……ええ、落ち着きのなさに拍車がかかっていた。そのために、患部をさらに強く刺激したりということが、多々ありましてね」

真面目にひょうきんに語る吉倉がおかしくて、つい噴き出してしまう。

それにしても、そうか……昨日は吉倉の知り合いである、清水というひとと一緒だったわけだから……吉倉の言葉は納得だ。好きな人が一緒にいては、綾美も落ち着けないだろう。

「ああいうのは、伝わるんだろうか?」

「はい? 伝わるって、何がですか?」

「あ、ああ。すみません。こちらの話です」

こちらの話か……

できれば、綾美のために、そこのところも聞きたいものなのだが……

清水情報は、できるだけたくさん仕入れたい。だけど、根掘り葉掘り聞くわけにも……。そんなことをしたら、聡い吉倉のこと、すぐに気づかれてしまいそうだ。

そんなことになったら、綾美に顔向けできなくなる。

聞くのであれば、なるべくさりげなく……

「昨日は、あれからどうなさったんですか?」

「それは……?」

「ほら、清水というひとが来て……家の中には入れるなって、吉倉さん綾美ちゃんに言ってましたけど……その命令は守られてました?」

この答えはかなり興味がある。由香としては、兄の命令に従ったはずはないと思っている。指示に従わなかったことに対して、吉倉がどう出たのかが知りたい。

「したり顔をしていますよ」

「えっ?」

叫んだ由香は、思わず右手で顔を隠す。

「まったく。貴女も綾美も、男という生き物を甘く見過ぎですよ。まったくわかっていない」

吉倉ときたら、苛立ったように言う。

「そんな言い方したら、俺は信用できないぞって言ってるように聞こえますよ」

からかうように言ってやる。

「困ったな」

その言葉に、由香は噴き出してしまう。

「これから貴女のアパートに行くのに、もう上がらせてはもらえないですね?」

「そんなことはありませんよ」

「どうしてです? 私自身、自分は信用できないと言っているんですよ?」

「だってわたしたち、もう二晩、一緒に夜を過ごしてますけど?」

そう指摘すると、吉倉は考え込んだ様子で、返事をしなかった。

由香に言わせれば、吉倉以上に信頼のおける男など、世の中にはいない。
そう確信している。





   

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