笑顔に誘われて… | |
第45話 あるがまま感じて えーと、えーと、えーと…… これって、わたしは……これからどうすれば、いいんでしょうか? 由香のアパートはもうすぐそこだ。 吉倉から、夢にも思っていなかった告白をもらい、いまに至るのだが…… これから自分はどうすればいいのか? 吉倉に対してどんな態度を取ればいいのか? さっぱりわからない。 三十年生きてきたけど、これまで一度だって男性と付き合ったことがないのだ。男友達すらいたことがない。 付き合うって、わたしはどんな感じでいればいいんだろう? 普通に話をすればいいのよね? でも、普通って? 付き合うってことは…… たとえば、手を繋いだりとか? それなら、すでに何度か手を繋いだんだけど…… 由香はハンドルを掴んでいる吉倉の手にちらりと視線を向けたが、とんでもなく恥ずかしさが込み上げてきて、パッと目を逸らした。心臓もあり得ないくらいドキドキする。 な、なんなの、この現象? 彼と手を繋ぐことを考えただけで、頭に血がのぼりそうだし…… 手を繋ぐイメージだけで、すでに挫折しそうだ。 なんなのぉ。もおっ。いったいどうすればいいの? あーー、もっと恋愛の経験を積んでおけばよかった。 経験値ゼロだもんで、まるで余裕がもてない。 あれきり吉倉も、一言も話さないし…… 世間話みたいな軽い話でもしてくれればいいのに……そしたら、少しは車内の空気を楽に吸えるようになると思うんだけど…… ならば、自分のほうから話を振ればいいのだろうが……意識しすぎて喉はカラカラ、一言だって口にできそうにない。 もおっ、あんたは中学生かっ! 心の中で自分に激しく突っ込みを入れ、そんな自分に由香はどっと疲れた。 それにしても、さっき聞いたことって、ほんとのほんとに、本当のことなのだろうか? からかわれた……ってことはないわよね? 吉倉さんはそんなひとじゃない。 でも、わたしなんかをずっと好きでいてくれたなんて…… な、なんか、恐くなってきたかも。 これまで口を利いたこともないわたしのことを気に入ってくれていたようだけど……それって、吉倉さん、わたしのことをものすごく買い被っている可能性がありそうだ。 たいしたことのない女なのに…… そう考えた瞬間、すーっと血の気が引いた。 いざ付き合ってみたら、思っていたイメージとまるで違ったと、一気に熱が冷めるということになりそうじゃないか? これまで持ち続けてくれていた恋愛感情。手に入れたことであっけなく消えるということは……ありそうだ。 そ、そうよ、由香。舞い上がってちゃ駄目。 できるかぎり冷静でいないと…… 彼が去って行ったあと、立ち直れないほどショックを受けないように…… 「由香」 吉倉に呼びかけられ、ぎょっとした由香は、「は、はいっ」と返事をした。 「……これからは、名前を呼び捨てにしても、構わないですよね?」 「あっ、はい。もちろん構いません」 「こっちを向いてくれないかな?」 吉倉と視線を合わせないようにしていた由香は、その言葉に息を止めた。 ぎこぎこと首を回して吉倉に向く。けど、目があった瞬間、目が泳いだ。 だ、駄目だ。意識し過ぎてしまって。 「一緒にいたいと言ってくれましたよね? その言葉を、私は信じていいんですよね?」 まるで確認を取るように吉倉が言う。 「は、はい」 こくこく頷きながら返事をした由香は、すでに自分のアパートに着いていることに、いまさら気づいた。 い、いったいいつの間に……? 今日は来客用の駐車場が空いていたらしい。 「アパートに入れてもらえるのかな?」 からかいのこもった問いかけをもらい、慌てた由香は「もちろんです」と不必要に大きな声で答えていた。 失敗した気分で、いそいで車を降りる。 吉倉も車を降り、ふたりは肩を並べて由香の部屋に向かった。 自分の歩みがぎくしゃくしたものになっているのがわかるが、もう気づかないふりをすることにする。 頭の中は整理がつかず、ぐしゃぐしゃだ。 未来に不安を感じる必要がなければいいのに…… 吉倉と思いが通じ合ったことに、単純に喜びに浸っていられればいいのに…… 現実はそうはゆかない。 人の心は変化するものだ。吉倉の心も、きっと変化する。 「由香」 「は、はい」 呼びかけられて、先ほどと同じようにぎょっとして返事をしてしまう。そんな由香を、吉倉はじっと見つめてくる。もちろん目を合せていられず、顔を逸らし気味にして彼の視線から逃げた。 「玄関を開けてもらえるかな?」 吉倉が右手を差し上げ、ドアノブを指して言う。彼はその手に、ショッピングセンターで買い込んだレジ袋を下げていた。 ハッとして見れば、吉倉は両手に全部の荷物を下げている。 わ、わたしってば…… 「ご、ごめんなさい。荷物のこと、気づかなくて……」 焦って荷物を受け取ろうとしたが、吉倉は手を引いてしまった。 「大丈夫です。それより、早く鍵を開けてもらえると助かる」 「そ、そうですよね。いま開けます」 慌ててバッグに手を突っ込み、鍵を探して取り出したものの、慌て過ぎたために取り落した。 「あっ。ご、ごめんなさい」 頭を下げて謝り、鍵を拾った由香は、ようやく玄関を開けた。 「どっ、どうぞ」 そう声をかけて、吉倉の手からレジ袋をひとつ取る。 「わたしってば……ほんとに……」 もごもごと謝罪し、情けないやら恥ずかしいやらで、いたたまれない。 わたしってば、もおっ。彼を意識しすぎて、馬鹿みたいに狼狽しちゃって……こんなじゃ、すぐに嫌われちゃう。 「ど、どうぞ、入ってください」 吉倉は、いまの由香を見て、どう思っているのだろう? 何も言わずに玄関の中に入った吉倉に続いて、由香も入った。 「ど、どうぞ」 数秒待ったが靴を脱ごうとしない吉倉に、テンパった由香は「吉倉さん、ど、どうぞ」とまた繰り返した。 な、なんか、わたし、同じ言葉ばかり口にして……まるで壊れたおもちゃみたいになってないか? 彼が靴を脱ぐのを待って、吉倉の足元ばかりをじーっと見つめていると、ようやく彼が靴を脱いで家に上がってくれた。 なぜだか無性にほっとし、由香も上がる。 「どうぞ、好きなところに座ってください」 「ええ。でも、この荷物を……」 「あっ、そ、そうでした。もらいますっ!」 慌てて受け取ろうと手を伸ばす。 「私が運びますよ。キッチンまで」 「あっ、そ、そうですか? すみません。それじゃ、お願します」 畏まって頭を下げ、小走りでキッチンに行く。 な、なんかもう、冬だっていうのに、汗が……と、考えたところで、部屋が冷え切っていることに気づいた。 「い、いけない。暖房。すぐ入れますっ」 レジ袋を手に持ったまま、バタバタとキッチンから飛び出て、エアコンのリモコンを取り上げて電源を入れる。 「すみません。気が利かなくて」 謝りながら振り返った由香は、目の前にいた吉倉に顔からぶつかった。 「わふっ!」 由香はぎょっとし、すぐさま顔を上げて、ぶつかったことを謝ろうとしたら、頭の後ろを手で押さえられて胸に引き寄せられた。 顔を上げようにも上げられない。 えっ? ええっ? こ、これはどういうこと? 「よ、吉倉さん?」 「少しの間、このままで……」 「えっ?」 「動揺が収まるまで……」 あ…… 吉倉の言葉に、顔が赤らんだ。 自分のほうが年上なのに……派手に動揺して落ち着きを失くして…… みっともなかったんじゃないだろうか? 彼の目に、みっともなくうつったんじゃないだろうか? 呆れられてしまったんじゃ? ……もう、幻滅されてしまったかも。 色々と考えて、悔いの感情に苛まれ、胸が苦しくなってきた。 涙まで込み上げてきて、それを必死に堪えようとしたために、由香は息苦しくなってしゃくりあげた。 「ひゃっうっく」 耳をふさぎたくなるようなおかしな声が口から飛び出た。 もう、最悪だ。わたし…… 「も……やだ」 吉倉の胸に顔を寄せている状況でいるのが堪らない。 身を離そうとしたが、そうさせてくれない。 「どうして泣くんです?」 「そんなこと……き、聞かないでください。自分が情けないからに決まってます」 「は? ……情けない?」 吉倉は由香を抱き締めたまま、顔を覗き込んでこようとする。 由香は必死に抗った。 「やっ! 嫌です。やめてっ!」 悲鳴のように叫びながら、吉倉の胸にしがみつく。 いまはとてもじゃないが、吉倉と目を合せられない。 涙でぐしゃぐしゃな顔など見られたくない。 わたし、何やってるんだろう? 吉倉に嫌われたくないのに、彼に嫌われるようなことばかりしてる。 もう、駄目だ。完璧に呆れられたに決まってる。 この状況から、どうやって抜け出せばいいのだろう? 誰か助けて! そう心の中で叫んだとき、吉倉が由香の背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめてきた。 「夢のようだな、ほんとうに……」 一瞬、彼が何を言ったのかわからなかった。 いま……なんて? 夢のようだとかって、口にしなかった? 「あ、あの……」 「うん?」 やさしい相槌に……どうしてか頭が真っ白になった。 それとともに、心が凪いできた。 複雑に考えなくていいのかも。 考えなければ、吉倉をあるがまま感じて、きゅんとするようなしあわせの中に入られる。 「……吉倉さん」 「うん?」 やさしい声に心が和み、由香は笑みを浮かべていた。 もう一度「吉倉さん」と呼びかける。 「うん……」 いいんだ、これで…… 抱き締めてくれていることが、彼の答えなのだ。 そしてわたしも、彼に触れていたいと思う。 由香は勇気を振り絞り、吉倉の身体に腕を伸ばし、おずおずと抱き締めた。 |