笑顔に誘われて…
第46話 どうしようもなく



「ど、どうぞ」

昼食の用意がようやく整い、由香は吉倉に食べるように勧めた。

おかしな感じで緊張してしまい、作るのにいつもの倍くらい時間がかかった気がする。

精神的な疲れを感じて息を吐いていると、真向かいに座っている吉倉が、「ではご馳走になります」と言って箸を手に取った。

あ、味は……だ、大丈夫だろうか?

ものすごーく不安になり、上目遣いに吉倉のことをちらちら窺っていたら、口に入れる前に視線を向けられた。

目が合い、反射的にびくりとする。さらに動揺のあげく、さっと視線を逸らした。

い、いやだ。おかしなことやっちゃった。

もおっ。こんな自分、嫌だ。誰かどうにかして……

もどかしさに顔をしかめていたら、くすくす笑いが聞こえてきた。

由香は顔を真っ赤にして吉倉を見た。

彼は由香を見つめながら笑っている。

笑わないで下さいと言いたいが、声がだせない。

「由香」

淡々と呼びかけられた。

その声に、なんの感情もこもっていなかったからか、返事ができた。

「は、はい」

「実は、僕は歌がうまいんだよ」

う、歌?

「は……えっ? あっ、そっ、そうなんですか?」

「ああ。歌ってみようか?」

突然の歌がうまい発言にもぽかんとしたが、さらに歌うと言い出され、唖然としてしまった。

「由香?」

返事を催促するように呼びかけられ、由香は「は……はい」と戸惑いながら答えた。

戸惑わされはしたけど、吉倉が歌うというのなら、もちろん聞いてみたい。

「では、母校の校歌を」

そう言って吉倉は歌い出したが、彼の母校の校歌を聞いたことのない由香でも、そういうメロディーではないだろうとわかるくらい、音程は外れていた。

思わず目を丸くして歌う吉倉を見ていたら、一番を歌いきったらしく、口を閉じて期待する目を向けてくる。

「どう、うまかったろ?」

にやにやしながら吉倉が言った途端、とんでもなく笑いが込み上げ、由香は堪らず派手に噴き出した。

口を押さえて、笑いを止めようとするが、耳に吉倉の見事な歌声が残っていて、消し去ろうとしても消し去れない。

「も、やだ。……ごめん……なさい」

笑ってしまう自分に困りながら、あまり気持ちのこもっていない謝罪を口にしてしまう。

「喜んでもらえてよかった。……由香、今度は君の歌が聞きたいんだが」

えっ? わ、わたし?

「む、無理です。ものすごくヘタ……」

由香はそれ以上言えなくなり、口を閉じた。

いまの吉倉の歌を聞いてしまっていては、口にしづらい。

由香はきゅっと眉を寄せた。

「吉倉さん。いまの、わざとでしょう?」

「どうかな?」

吉倉は楽しそうに、ぼかした答えを返す。

「絶対、ワザとに、決まってます!」

決めつけるように言うと、吉倉はくすくす笑いながら、口を開いた。

「それがワザとと言えなくもないんだ。いまのは故意に下手くそに歌ったけど、実際のところあまり変わらない。だから、カラオケにも行ったことがない。君はカラオケに行ったことがあるのか?」

「カラオケですか……家族となら。母がすごく嵌っていたときがあって」

「いまは?」

「いまはカラオケ熱も引いたみたい。誘ってこないし……」

話をしながら吉倉が食事をしているのを見て、由香も無意識に食事を始めた。

「家族の中では、誰が一番うまいんだい?」

「そうですねぇ。みんな似たり寄ったりかしら」

「親父さんも歌うの?」

「父は……照れ屋なんです。母はデュエットしようってしつこく誘ってたけど、いつも全力で嫌がってました」

全力に力を込めて言ったら、吉倉が楽しそうに笑い出した。由香も一緒になって笑った。

「そういえば……」

どうしたというのか、急に吉倉がくすくす笑い出した。
思い出し笑いのようだが……

見つめていると、吉倉が「真央さんの歌を思い出して」と言う。

その言葉に、クリスマスの夜、吉倉と真央、そして靖章と過ごしたときのことを思い出した。そして、真央がみんなにクリスマスの歌を披露したんだった。
舌足らずに一生懸命身振り手振りで歌う真央は、それは可愛かった。
靖章は目尻を垂らして、しあわせそうで……

これからはもういつでも、彼は真央の歌う姿を見られるのだ。

「真央、すっごく上手ですから」

胸をいっぱいにして、由香は言った。

すると、同意するように頷いた吉倉が、急に悪戯っぽい表情をする。なんだろうと見ていると、おもむろに口を開く。

「めーるるっ、くるっくるっるまぁ〜す、めーるめーるめーるめーる……」

はじめ驚いたが、身振りまで真似て見せるのを見て、由香は大笑いし、自分も負けじと真似し始めた。

「めっるるるまぁ〜す。さんたーのおじしゃん、やってーくーたー」

そこまで歌った時、吉倉が派手に噴き出し、由香はハッと我に返った。

「や、やだ。吉倉さんがノセるから……」

「心外だなぁ。僕は君をノセちゃいないぞ。君が勝手にのってやったんだろ」

由香は、ほっぺたを膨らませて吉倉を睨んだ。だが、その睨みは吉倉には逆効果だったようだ。お腹を抱えて笑う。

吉倉の笑いっぷりに、由香も腹を立てていられなくなった。

「もおっ。吉倉さんたら、ひどいですよ」

「いや、楽しかった。そうだ。午後には真央さんと会えるんだし、また歌って見せてもらえるかも知れないな」

「うーん、どうかしら? 真央の気分がのって歌い出すといいんですけど……リクエストに対しては、相当ご機嫌じゃないと歌ってくれないから」

「なら、ご機嫌にさせよう」

「どうやって?」

「それはいまから考える。……うん、これ美味しいな」

大きな一口を口にし、飲み込んだ吉倉がしあわせそうに言う。

そんな彼を見て、嬉しさを噛み締めた由香は、ふと気づいた。

あれっ?

さっきまで、あんなに動揺して、緊張して、どうしようもなかったのに……

あっ、そ、そうか。吉倉さんがへたくそな歌を歌ってくれてから……

あのやりとりに気を取られて、わたし、すっかり気が楽になっちゃったんだ。

由香は自分も昼食を食べながら、食べている吉倉を見つめた。

今日の料理は緊張と動揺の中で作ったから、正直ピンボケしたような味だ。それでも、吉倉は美味しそうに食べてくれている。

ほんと、彼はなんてさりげなく気配りのできる、やさしいひとなんだろう。

嬉しさに涙が滲んできた。

由香はこっそりと鼻を啜り、涙をなんとか引っ込めて食事を続けた。

色々考えなくていいんだ。

こんな風に、普通に接してゆけば……それでいいんだ。





「いいですよ。吉倉さん座っててください」

食事を終え、片付けるのを手伝うと言って吉倉まで立ち上がったのを見て、由香は慌てた。

「手伝いたいんですよ。それに、もうそろそろ靖章さんたちが来てしまうでしょう。ふたりで片付けた方が早い。ほら、僕がテーブルのものをキッチンに運んでゆくから、君は洗って」

テキパキと指示され、結局断れずに由香はキッチンに入った。

確かに、これから靖章のアパートを出るとの電話を姉からもらい、時間的に到着してもよさそうな頃合いだ。

食器を運び終えた吉倉は、今度は食器を拭くと言い出し、キッチンの中に入ってきた。

「そんなに数はありませんから、わたしが自分で……」

「やらせてほしいんだが……駄目かい?」

控えめに申し出られて困る。そんな風に言われては駄目だなんて言えなくなる。

けど、キッチンは狭いし、吉倉との距離が近いと、自分がおぼつかなくなるのだ。

ああ、もおっ、彼を意識し過ぎだわ。

「そうだ。君、着替えた方がよかったんじゃないかな? まあ、いまさらな感じだが……」

そう言われて、気づく。

「ああっ!」

姉が貸してくれた服……その上にエプロンをつけて料理をしてしまった。

油がはねている可能性もあり慌ててしまう。

それに、この洒落た服で、姉たちを出迎えるというのは、不自然で恥ずかしい。

「き、着替えなきゃ」

「僕がもっと早く気づいてあげられればよかったな」

「吉倉さんがそんな風に気にすることじゃ……」

そんな会話をしつつも、着替えをと思ってるせいで気が焦り、まだ洗い物の最中だと言うのに、手は無意識にエプロンを脱ごうとして動く。

テンパっていたところに、インターフォンが鳴った。

「あっ!」

き、来ちゃった。

「僕が出ようか? 君は……」

「も、もう着替えてる暇はないですよね。……この片付けもあとにします」

「そうだね」

そう言った吉倉は、由香を見つめ一瞬迷うような表情をする。

いったいなんだろうと戸惑っていると、そっと由香に腕を回してきた。

えっ?

ふわりと抱き締められ、目を瞬く。

だが、すぐに解放された。

「ごめん。抱き締めたい衝動に負けた」

照れ笑いと申し訳なさそうな顔をしてそう言った吉倉は、キッチンから出ていった。

彼の背中を見つめ、どうしようもなく甘く切なく胸が疼く。

その感情をじんわり噛み締めた由香は、口元に笑みを浮かべて吉倉のあとに続いた。





   

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