笑顔に誘われて…
第59話 恋ボケに反論



「由香」

抱きしめている腕を少し緩め、吉倉が呼びかけてきた。

「はい」

返事をするが、吉倉は由香と目を合わせたまま、なかなか言葉を口にしない。

「佳樹さん?」

「うん……その……」

「どうしたんですか?」

何か、困ったことでも思い出したんだろうか?

あっ、もしかしたら、清水さんのことかしら? それか、綾美ちゃん……

「これから……私の実家に、一緒に行ってくれないか?」

その申し出に、由香は目を丸くした。

よ、佳樹さんの実家に? それって、綾美ちゃんの家ってことで……

一度、足を捻挫して動けなくなった綾美ちゃんに会いに行って、お邪魔したけど……

「嫌かい?」

「い、嫌って……ことは。あ、あの……そ、そ、それって……つまり」

「ああ。両親に会ってほしい」

や、やっぱり!

ど、ど、どうしよう……心の準備とか、まだ全然……

「い、嫌じゃないんですけど……と、突然すぎて……その、心の準備が……」

「心の準備が必要か? それって、どれくらいあれば準備が整う?」

理性的に問われて、返事に困る。

思わず顔をしかめたら、吉倉が声を潜めて笑い出した。

「わ、笑わないでください。こ、こういうこと初めてだし……色々と……その……」

由香は口ごもり、顔が赤くなっていることが恥ずかしくて俯いた。

「きょ、今日は無理です。こんな振袖姿で行く度胸なんて、ないので」

「……うーん。そうか……だな。初顔合わせってことになるんだし……両親には普段の君を見て欲しいかな」

その言葉にほっとして、由香はこくこく頷く。

「なら……明日は?」

あ、明日ぁ~?

「……駄目か」

由香の表情を見て、吉倉が結論づける。

「も、もうちょっと……その猶予を……」

「由香」

「は、はい」

「君の心の準備が整うのを待っていたら、一生結婚できない気がするんだが? ……これは、私の気のせいか?」

うっ!

辛口の嫌味に、由香は詰まった。

目を泳がせている由香を見て、吉倉はくすくす笑う。

「では、間を取って、明後日の三日でどうだろうか?」

由香は、きゅっと眉を寄せた。

「佳樹さん、ぜんぜん間を取ってませんけど」

「いや、君の気持ちと私の気持ちの間を取ったつもりなんだが……」

「意味がわかりませんよ」

むっとして言うと、くすっ笑ったあと、軽いキスを受ける。

驚いた由香は、目を見開き、さらに真っ赤になった。

「よ、佳樹さん!」

「なんだい?」

「いまのは、何か言おうとして呼びかけたんじゃありません。抗議の呼びかけですよ」

「抗議? 私は何か、君に抗議されるようなことをしたかな?」

すっとぼける吉倉に、由香はため息をついた。だが、笑いが込み上げてくる。

「もおっ、佳樹さんには勝てません」

「よし。なら、三日で決まりだ」

「えっ? ええーっ!」

そんな強引な流れでもって、由香は三日の日に吉倉の実家を訪問することになってしまった。

「き、緊張してきちゃいましたよぉ」

泣きそうになりながら言うと、吉倉が首を横に振る。

「通ってもらわないとならない道だから。私がついてるんだ、何も心配はいらないさ」

「でも……あの?」

「うん?」

「綾美ちゃん……大丈夫でしょうか?」

「綾美? あいつが大丈夫って……どうして?」

「賛成してくれるのかなって……その、わたしのほうが年上だし……」

「そんな心配はいらないさ。あいつは君を崇拝してるんだぞ」

「す、崇拝?」

「ああ。君を女神のように慕ってる」

「あ、ありえませんよ」

否定すると、吉倉はにっこり微笑んだだけだった。

そのあとふたりは、ソファに並んで座り、夕方まで時を過ごした。

吉倉は、清水がやってくるのではないかと危惧し続けていたが、誰もやってこなかった。

そろそろ日が暮れようかというところで、由香は両親のマンションまで吉倉に送ってもらうことになった。

元旦の今日、吉倉は実家で夕食を食べることになっているらしい。

吉倉は、一緒に夕食を食べられたらよかったのにと、ひどく残念がってくれ、それだけで由香は嬉しかった。

「明日は……午前中、用事があるんだ。午後から会えるかな? 二時くらいがいいんだが……君の都合はどう?」

「はい。二時で大丈夫です」

明日の約束をし、由香は顔をほころばせた。

明日も会える。そう思うだけで、心がウキウキする。

わたしってば、佳樹さんにすっかり心を奪われちゃってるわ。

これまで、自分の世界では、自分が中心だったのに……中心が吉倉に変わってしまったような……

そう思うと、少し怖くもある。

恋愛をしているひとたちって……誰しも、こんな特殊な不安感を抱いているのかしら?

もちろん、心にあるのは不安だけじゃない。喜びやトキメキのほうが大きい。





「まあ、明後日、佳樹さんのご両親にご挨拶に行くの?」

「う、うん。なんか、緊張しちゃって……考えてると、もう胃が痛くて……」

由香は、キッチンで夕食の準備を手伝いながら、母に心の内を打ち明けた。

ここに姉がいたら、姉に相談していただろうが、姉は靖章のところに行ってしまっている。

「もう、いよいよなのねぇ……」

母の寂しそうな声に、由香は驚いた。

そんな反応をもらうとは思っていなかった。

「お母さん?」

「……あんたも、もう三十なんだし……お嫁の貰い手があって、そりゃあ嬉しいのよ。相手は、あんなに素敵なひとだし……けど……やっぱり、お嫁に行っちゃうんだと思うと……ね」

「そ、そういうもの? だって、いまだって別に暮らしてるんだし……」

「違うわよぉ。お嫁に出すっていうの……そういうのじゃないのよ」

「そ、そう……」

「でも……早紀も……おかげさまでしあわせになれそうだし……真央も……。佳樹さんのおかげよねぇ」

また同じ言葉を繰り返す母に、由香は笑った。

でも、由香だって同じ思いだ。

由香の脳裏に、もうひとり……感謝したいひとの姿が浮かぶ。

イチゴ柄の可愛らしいサンタコスチュームを着ていた、宝飾店の店員さん。

「ねぇ、お母さん」

「うん?」

「わたしね……幸運を授けてくれるサンタさんに会ったの」

「はあっ?」

イチゴサンタちゃんのことを思い出し、目を潤ませて母に言ったら、顔を歪めて呆れたような叫びをもらう。

その反応に面食らっていたら、母はたまたま手にしていたザルで、由香の頭をパコンと叩いた。

「な、なに?」

なんで叩かれたの?

「まったく……恋ボケの娘ってのはやっかいだわ」

「は、はあっ? お母さん、別にわたしは恋ボケなんてしてないわよ!」

ムキになって言い返すが、母は相手にしてくれない。

「なーにが、『わたし、幸運を授けてくれるサンタさんに会ったのぉ♪』……よっ!」

母に睨まれて、由香は唇を尖らせた。

「そ、そんな言い方してないし……」

「してたわよ。ここに鏡があったら、見せてやりたいわ」

「もおっ。ちゃんと話を聞いてよぉ」

もどかしくて足踏みしながら母に訴える。

「はいはい。いずれね……さあ、さっさとその大根、千切りにしてちょうだい」

話を聞いてくれない母に拗ねながらも、由香は命じられた通り、大根を千切りにする作業に戻ったのだった。

本当のことなのに……お母さんったら、ぜんぜんまともに取り合ってくれないなんて……

わたしが佳樹さんと出会えたのは、絶対イチゴちゃんのおかげなのに……

……まあ、わたしの言葉の選び方も悪かったかな?

そうだ。明日、午前中に行ってみよう。

お正月には福袋を売ってるはず。そして、きっとまた、イチゴちゃんは可愛いコスチュームを着ているに違いない。

口元に笑みを浮かべた由香は、ちらりと母を窺う。

お母さんもネックレスが欲しいって言ってたし……お年玉代わりにあげようか。

楽しく算段し、由香は切り終えた大根を水にさらした。





   

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