笑顔に誘われて…
第68話 貴重な時間



「ねぇ、由香、ここに戻ってこない?」

洗い終えた皿を差し出しながら、母がぽつりと口にした。

突然だったけれど、皿を受け取った由香は、さほど考えることなく、「そうしようかな」と答えていた。

キュッキュッと音を立てて皿を拭いていると、なぜか母が手の甲で涙を拭いている。

「お、お母さん、どうしたの?」

「ふふ。ごめん。なんでかしら……泣けてきちゃって……」

実家に泊まるために帰ってきたのは、ひと月ぶりだったりする。

日曜日に、佳樹と一緒に顔を出したりはしていたが……

実は、正月明けからこっち、ずっと残業が続いていて、土曜日までも出勤になってしまっているのだ。

ふぬけた親父顔をしたピンクのぬいぐるみ、その特大サイズの注文が年の暮れに入ったのだが、一つ作り終えたら、かなり気に入ってもらえたようで、またすぐに追加注文を受けた。

さらに色々なサイズも同時注文を大量にもらい、てんてこ舞い状態で作っているところ。

すでに二月に入ったが、アパートと工房を往復する毎日。貴重な休みの日曜日は、佳樹とデートに出掛けたりして過ごしているから、実家に泊まることがなかった。

アパートを引き払って実家で暮らすようになれば、両親と過ごす時間がもてるようになる。

工房まではこれまでより時間がかかるわけだけど、家事が楽になるから、これまでより大変になることはない。

「一緒に住めるのも、あんたが結婚するまでの間だけだものね」

「うん」

由香は気恥ずかしさを感じながら頷いた。

佳樹との結婚は、十月くらいを予定している。

式場探しもそろそろ始めなければならないのだが、仕事が一段落しないと、そんな時間もなかなか取れない。

「でも、いまは忙しいから、アパートを引き払うのも、無理っぽい?」

「うーん。大きな家具はないし、そんなに荷物はないと思うから……引っ越し業者を頼んで……土曜日もお休みもらうようにする」

「もらえそう?」

「たぶんね。今週には特大サイズは作り終えるし……さすがにもう特大サイズの追加注文はないと思うから……大丈夫だと思う。それに、忙しいのも今月が山だと思うから」

「あんたの作ったぬいぐるみが人気なのは嬉しいことだけど……体調は大丈夫なの? ご飯もちゃんと食べてるの?」

「うん、ちゃんと食べてる」

そう答える由香の顔は赤らんでいて、そのことを母に気取られやしないかと、ひやひやしてしまう。

佳樹の都合がつく、週の内二日くらいは、彼が夕食を用意してアパートで待ってくれていた。そして、そのまま泊まっていったり……

そんなわけで、忙しい日々も、とてもしあわせで充実していた。

アパートを引き払うと、そんなこともできなくなるけど……

両親と暮らせるのも結婚するまでだ。迷う気持ちはない。
佳樹も賛成してくれるだろう。

「佳樹さんも、いつでも泊まってもらっていいからね」

「えっ?」

「婚約してるんだから、かまわないわよ。なんなら、おめでた婚になっても」

「お、お母さん!」

「うん? どうした?」

由香が大きな声を出したものだから、テレビを観ていた父が驚いて声をかけてきた。

「なんでもないわよーっ。あっ、あなた、由香がアパートを引き払って、ここに戻るってよ」

「えっ、そ、そうか」

驚きと喜びのこもった父の声に、由香は微笑んだ。

恥ずかしいけど……お母さんの言葉に甘えて、佳樹さんがこの家に泊まってくれたら嬉しいかも……もちろん、佳樹さん次第だけど……





「そうか、このアパートは引き払うのか」

佳樹が考え深そうにアパートの部屋を見回しながら口にする。

由香はなんとなく寂しさを感じつつ頷いた。

佳樹さんがこのアパートに来るようになってまだ二ヶ月くらい……でも、佳樹さんとの思い出はたくさん詰まっている。

引き払うのは、ちょっぴり残念にも思うけど……

「母が……わたしと一緒に暮らせるのも、結婚するまでだからって……」

「元々、君は実家で暮らしていたんだものな。お姉さんが離婚されて実家に戻られて……」

「はい。このアパートに越してきて、三月で十カ月……一年経たずに引き払うことになっちゃいました」

「よかったな、由香」

佳樹の言葉が、胸にじんわり染み入る。

「ええ」

彼がそう言ってくれると、素直に頷ける。

由香が両親の家に戻れることになったのも、姉が義兄と元のさやに戻れたからなのだ。

そんな日が訪れるなんて思ってもいなかった。けど、奇跡は起きたのだ。

いまの姉は精神的に落ち着き、新婚当初よりしあわせそうだ。

姪っ子の真央もしあわせそうだし……

可愛い真央を思い浮かべて笑みを浮かべた由香は、佳樹の手元に視線を向けて笑いを堪えた。

彼は、ぎこちない手つきで針を動かしている。

今日は日曜日で、佳樹と由香のアパートで過ごしている。

ずいぶん前に佳樹に頼まれた、ミニサイズのぬいぐるみ作りをしているところ。

由香が作っていたら、自分も作ってみたいと彼が言い出したのだ。

「やはり、針仕事というのは難しいな。けっこう器用なほうだと思ってたんだが」

「佳樹さんは、とても器用ですよ。初心者でそれだけできればたいしたものです。サンタさんも立派なできでしたし」

「ああ、あのときは君の指導が上手かったからな。言われるまま縫っていたら、いつの間にやら出来上がっていて……まるで魔法みたいで面白かった」

「魔法?」

「ああ。君はまるで魔法のように物を作る」

その表現に由香は笑った。

「ほら、綾美も言っているじゃないか、君は『魔法の手』の持ち主だって」

「別に魔法じゃありませんよ。ただ、縫っているだけです」

「それには異論があるな。それだけじゃないと思うぞ」

照れくさい話題になり、由香は「そろそろお昼ご飯にしますね」と、そそくさと立ち上がった。



「ところで……十四日も、残業はあるのかな?」

昼食のサンドイッチを食べながら、佳樹が言う。

「十四日……」

あっ! そ、そうか……来週はバレンタインデーなんだわ。

佳樹さんにあげるチョコも準備しないと……

でも、なんか恥ずかしいかも。バレンタインデーに、好きなひとにチョコを渡す体験なんてしたことないし。

「残業休みます」

「休めるのか?」

「はい。ずっと休んでないので、申し出れば休ませてくれます」

「そうか。……その、レストランで」

「あの、よかったら、わたしが夕食を作ります」

「いいのか? でも、仕事に追われて疲れているのに……」

「作りたいんです」

そうだ。今日、買い物にいくつもりだったから、そのときの食材も揃えておこう。もちろんチョコも。

ショッピングセンターがいいわ。このところ全然行けてなかったし、ひさしぶりにイチゴちゃんに会いに……

「あっ!」

「どうしたんだ?」

「い、いえ……そのイチゴちゃんが……」

「イチゴちゃん……ああ、宝飾店の?」

「はい。バレンタインフェアで、たぶんまた可愛いコスチュームで頑張ってるんだと思うんです。会いに行きたいと思っていたのに、このところ仕事が忙しくて、すっかり忘れてました」

「なら、これを食べたら行くとしようか?」

「はい。あの、バレンタインデーの日、ここでもいいですか?」

「いいさ。ここもあと少しかと思うと、ここでの思い出をもっと作りたいなと思うしね」

そう言った佳樹は、なにやら言いにくそうに口ごもる。

「佳樹さん?」

「いや……その……君が実家に戻ったら……これからは僕の家に泊まりに来てもらえるかなと……」

「あ、は、はい。行かせてもらいます。……それに、母が」

「うん、お母さんが?」

「佳樹さんにも、泊まりにきてもらえって」

「僕も泊まらせてもらえるのか?」

「はい」

頷いた由香は、母の口にした『おめでた婚』の言葉を思い出してしまい、どうにも顔が赤らむ。

「僕を泊めるのは、君が恥ずかしいかい?」

「あっ、いえ」

どうやら佳樹は、由香が顔を赤らめたのを誤解したらしい。

「こ、これは、そうじゃないんです」

赤くなった頬を両手で隠しつつ、口ごもって言う。

「うん?」

「な、なんでもないんです」

「なんだ、気になるな?」

「紅茶のお代わりはいりませんか?」

「逃げたな。でも、追及はしないでおこう」

「……ありがとうございます」

ついお礼を言ってしまったものの、居心地の悪さに、由香は焦って立ち上がった。

キッチンに立ったが、佳樹はすべて見通して笑っているよう気がしてならなかった。

もおっ、お母さんが『おめでた婚』なんて言うから……

ぶつぶつ口の中で母に文句を言っていたら、後ろからふっと抱きしめられた。

「よ、佳樹さん」

「君の後ろ姿を見ていると、どうにも抱きしめたくなる」

うなじにやわらかなものが触れ、由香はピクンと身を震わせる。

すでに何度か経験していることだけど……慣れることがないというか……いちいち大袈裟に反応してしまっているようで恥ずかしい。

「早く結婚したいと思う半面、こういう時間も貴重で……もっと味わっていたいと思ってしまうな」

それはわたしも同じだけど……

彼女はおずおずと身体の向きを変え、佳樹を見上げた。

特別なひとが自分を見つめてくれている。そのことに、胸が痛いほどきゅんとする。

佳樹がふっと微笑み、ゆっくりと顔を近づけてくる。

ふたりの唇が重なり合い、ほんの少しだけど由香もキスを返す。

そんな自分に進歩を感じて恥ずかしいけれど嬉しくもある。そのことを佳樹も喜んでくれるのが、なんとなく伝わってくるし……

「今夜も、泊まって行ってもいいかな?」

囁くような問いかけに心臓がバクバクする。由香は真っ赤になって頷いた。

楽しそうにくすくす笑いながら、佳樹は赤く染まった由香の頬をそっと撫でる。

わたしのほうが年上なのに、翻弄されてばかりなのがもどかしい。

不服に思いつつ佳樹を見ると、彼は笑みを消していて、どきりとさせられた。

その眼差しは、ひどく切なさを帯びている。

「佳……」

唇に指先で触れられ、由香は言葉を止めた。

再び唇が重ねられ、由香は深まっていく口づけに思考を手放し、瞼を閉じた。





   

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