笑顔に誘われて…
第71話 バタバタバレンタイン



ピピピピピピピピピ……

馴染みの目覚しの音に、由香はぼおっとした頭で手を差しあげ、目覚し時計を探す。

ううーっ、なんかいつもより目覚し時計の音が頭に響くんですけど……

「ふああああああ~~~っ」

大きな欠伸をし、少し眠気が払えた気がする。

目尻に浮かんだ涙を拭い、由香は思い切り大きく目を開けた。

完璧、寝不足だわ。

コスチュームを作り上げて、お風呂に入って……結局、ベッドに入ったのは何時だったっけ?

目の下にクマでも出来てなきゃいいけど……

バレンタインデーだっていうのに、みっともない顔を佳樹さんに見せたくない。

とにかく起きなきゃ。

出勤する前に、今夜のご馳走の下ごえらえをして……それから部屋を片付けて、しっかり掃除もしておいたほうがいい。

今日は残業せずに帰ることにしているけど、なんだかんだで遅くなったりしたら、戻ってきて掃除する暇はないかもしれないもの。

とにかく、佳樹さんより先にアパートに戻ってきて、準備万端整えておかなきゃ……

そこまで考えて、うーんと悩む。

ほんとにあのコスチュームを着て……彼をびっくりさせるの?

頭の中でその場面を想像し、気後れする。

う、うーん、やっぱり、やめておこうかな。さすがにやりすぎよね?

でも、せっかく作ったのに……

悩みつつ起き上り、ベッドを出る。

ううーっ、寒い!

身を縮こませ、由香は暖房をつけ、急いで靴下を履いた。

用を足してから洗面所で顔を洗い、朝食は軽く済ませようとトーストを焼く。

今朝は、紅茶とトーストだけでいいわね。時間を有効に使わないと……

そう思いつつ、時計に視線を飛ばした由香は……きゅっと眉を寄せた。

時計のデジタル表示を見つめ、見間違いかと目を擦り、もう一度確認する。

「えっ!」

一瞬、頭が真っ白になる。

「ええっ! ええっ!」

二度叫び、その都度飛び上がった由香は、ベッドまで走り、目覚し時計を確認し、「嘘―っ!」と叫んだ。

家を出る時間まで、もう二十分しかないなんて……

「わわわわわっ」

泡を食って叫んだ由香は、大慌てで身支度し、家を飛び出たのだった。





なんとか遅刻せずに済んだ。

仕事が始まり、ようやく息をついたが、飛び出してきたアパートの有様を思い出し、由香は顔を歪めた。

料理の下ごしらえどころか、部屋を散らかし放題で出てきてしまった。

どっ、どうしよう……

こんな大事な日に、まさか寝坊してしまうなんて……もう自分に腹が立ってならない。

あんな、使うかどうかもわからないコスチュームなんて作ってるから。

あなたときたら、馬鹿じゃないの?

自分を責めるが、虚しいばかりだ。

こうなったら、とにかく何があろうと定時帰ろう!

そう心に決め、由香は仕事に集中した。


「高知さん、そろそろ時間ですよ」

綾美から声をかけられ、由香は一心に針を動かしながら頷く。

ここまで、終わらせたいんだけど……あとどのくらいかかるかしら?

早く戻って料理の準備をしないといけないし、部屋の片づけも……

あーっ、もうっ。どうして朝寝坊しちゃったんだろう。

いまさらどうしようもないことだとわかっていても、今朝の寝坊を取り消したくなる。

なんとか十分ほどでキリのいいところまで終えられ、由香は急いで片付けた。

「それじゃ、綾美ちゃん、あとお願いね」

綾美に声をかけると、彼女はにやっと笑い返してきた。

「はい。……兄貴にヨロシク」

周りのみんなに聞こえないように、声を潜めて言う。

綾美にからかわれ、どうにも頬が染まってしまう。

そんな由香を見て、綾美がくすくす笑い、釣られて由香も笑ってしまう。

「それじゃ、すみませんが、今日はお先に失礼します」

工房のみんなに向けて、挨拶する。ほぼ全員、残業態勢だ。

「お疲れ様でーす」

「お疲れ様ぁ」

あちこちから声をかけられ、由香はみんなに申し訳ない気分で頭を下げ、工房をあとにした。


アパートまでの道のりはいつもより混み合い、赤信号遭遇率も高かった。

なんでこんな日に限ってと苛立ちが募ってしまうが、結局のところ、由香に心の余裕がないものだから、そんな風に感じてしまうのかもしれない。

もっと落ち着かなきゃ。イライラしていても、到着時間は変わらないんだから。

自分をなだめすかし、ようやくアパートに帰り着く。

佳樹がもうやってきているのではないかと気を揉んでいたが、彼の車は見当たらない。

ほっとしつつ車を停めた由香は、アパートに駆け込んだ。

部屋を見回し、その散らかりようにちょっと気が遠くなる。

何から始める?

掃除?

それとも、先に料理を始める?

よし、料理が先だ。料理をしながら部屋は片付ければいい。

キッチンに向かおうとして、壁に下げてあるコスチュームが視界に入る。

そうだ。わたし、寝不足のせいで、顔がみっともないことになってるんじゃないの?

時間に余裕がなく、いまのいままで、そんなことに構っていられなかった。

キッチンに入って、さっさと料理に手を付けるべきだと理性が意見を述べるものの、乙女としてはどうにも今の自分の顔が気になる。

洗面所に走り、鏡で顔をじっくりと検分する。

こっ、これって……ひどくない?

目の下に、うっすらとクマがある。

これって、ファンデーションでカバーできるかしら?

もう一度メイクをやり直さないと。

いえ、そんな時間はないわよ。

だって、料理を作らなきゃならないし、部屋の片づけだって……

焦りがマッスクになり、料理のためにキッチンに向かおうか、片付けのために部屋に向かおうか、それともメイクし直そうか、クレンジングを手に取ったりまた戻したりと、無駄にジタバタする。

「落ち着け、わたしっ!」

由香は自分に命じた。

「もおっ、意味もなく、時間を無駄にしてるから!」

鏡に映っている自分に怒鳴り、由香は洗面所から出た。

とにかく、料理をしよう。

仕事から帰ったまま、由香はエプロンもせずに料理を始めた。


一応、夕食の準備が整い、ほっと息をつく。

よしっ、あとは部屋の片づけを……

だが、そのとき、インターフォンが鳴り、由香はぎょっとした。

えっ! 佳樹さん、きっ、来ちゃったの?

唖然としたまま時間を確認し、顔が引きつる。

もうこんな時間……

散らかったままの自分の部屋を見つめ、身体が硬直する。

それに目の下のクマ……

ど、どうしよう!

あたふたとキッチンから出た由香は、床に散らばっているものを拾い上げようとし、そんなことをやっている場合じゃないと拾うのをやめる。

佳樹さんを玄関に待たせたままなのよ。

……でも、この散らかった部屋はどうするの?

パニック状態のまま、由香は玄関に向かう。

「よっ、佳樹さん?」

「ああ。……由香、どうかしたのか?」

「どうも……いえ、実は……あの、ちょっと待っててもらえ……」

待っていてくれと言いかけたものの、途中で止める。

この寒空に、彼を外で待たせるなんてありえない。いますぐ入れてあげるべきだ。

どんなに部屋が散らかっていたとしても……

部屋に振り返った由香は、とんでもないものを目に入れ、「あっ!」と思わず声高に叫んだ。

「由香、どうした?」

「す、すみません。すぐに戻ります!」

大声で叫び、とにかくコスチュームをクローゼットの中に隠す。

「お、お待たせしました」

急いで鍵を開け、佳樹を部屋に入れる。

「どうしたんだ?」

一歩玄関に入った途端、心配そうに尋ねられる。

「あ、あの……ご、ごめんなさい。部屋が、凄く散らかっていて……」

「うん? そんなに散らかっては……」

「ああっ!」

由香は両手を頬に当てて、叫んだ。

メイクのこと忘れてた。目の下のクマがそのまま……

佳樹さんにみっともない顔を見られちゃった。

「ああん、もおっ、どうしよう」

後悔にかられて身を捩る。

「由香、いったいどうしたんだ?」

驚いた佳樹が尋ねてくる。

「色々と……」

「色々と?」

「……実は今朝、寝坊しちゃって……」

「……寝坊?」

由香は肩を落として頷いた。

「やろうと思っていたこと、ぜんぜんできないまま出勤しちゃって……この有様なんです」

情なくて泣きそうになってきた。

ぐすっ、ぐすっと鼻水を啜りつつ、目に涙を浮かべていると、佳樹が愉快そうに笑い出した。

「なっ、なんで笑うの?」

「いや……いじらしくて」

いじらしい?

予想外の言葉を貰い、由香は顔を上げて佳樹を見つめる。

「ほらほら、泣くことはないよ。部屋の片付けは僕が引き受けるから」

「でも、だって……今日はバレンタインデーで……」

「僕は、君とバレンタインデーを過ごせるだけで、夢のようにしあわせだ」

胸を一杯にしたように、佳樹は口にする。

「……」

胸が熱いもので膨らみ、由香は言葉を返せなかった。

「ほかのことは二の次……いや、君の散らかっている部屋を、片付けさせてもらえることすら、しあわせに感じるな」

「よ、佳樹さんってば」

先ほどまでとは違う意味で涙が込み上げてくる。

由香は顔を歪め、佳樹にぎゅっと抱き着いた。





   

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